like a LOVE song
じゃあ先に行ってて、と言うと、倖雄は彼の教室へ少し小走りに入っていった。教科書を置いて、代わりに弁当を持ってこなければならないのだろう。
愛はその背中を見送って、食堂へ向かった。
もうじき春になる。校舎と食堂を繋ぐ渡り廊下は、もう新芽の出た木々に囲まれていた。
彼らは高校生活も三分の二を終えて三年生になる。二年生最後の定期テストも終わって、彼の知るところで留年したのは不登校だった葛原という生徒だけだった。七月からは休学状態となったらしいが、それよりずっと以前から学校ではほぼ姿を見れなかったように思う。
食堂へ入ると、購入していた食券と引き換えにうどんを乗せた盆を受け取った。彼が常にうどんしか食べないのは、他のメニューの味付けは舌にうっとうしいほどきついからだ。うどんは味気こそないものの、あとに味蕾の痙攣を残したりはしない。
テーブルに就くと、倖雄を待ちながらも少し箸をつける。弁当を持って出てくるだけならもうじき現れるだろう。
そういえば、倖雄は常にカレーライスを食べていた。この食堂ではスパイスから調合している自家製のものを使っているらしいが、その味の壊滅度合いと言ったらない。スパゲッティミートソースと並んで、この食堂でも一二を争う不味さだった。彼はそれらの料理があそこまでも大失敗をとるのを高校入学まで知らなかった。或いは、彼が豆腐の味利きで味覚が他よりも発達しているからなのかもしれなかった。
「ごめん、遅くなって」
と、そこへ倖雄が現れる。バンダナで巻かれた弁当包みを持っていた。
「いや。まあとりあえず座れよ。食べようぜ」
倖雄は愛の対面に座ると、両手を合わせて丁寧にいただきます、と言った後、弁当包みを開けた。紅の塗物という見た目に鮮やかなその弁当箱は彼の愛用しているものだった。
「何か用事あるの」
彼は綺麗な黄色の玉子焼きを口に運んで、矢継ぎ早にご飯を詰め込んだ。そういう強引な食べ方をしては、せっかく綺麗に作られた玉子焼きの味を殺すような気がするのは、やはり彼が食べ物屋の子息たる所以だろう。
「まあ、ちょっとな」
うどんをすすると、やはり味が異様に薄かった。けれど、異常に濃いよりは嬉しい。それにしても、豆腐の細かい味の違いさえ利き分ける彼の舌が味を判別できないのはどういうことだろう。スープも麺もまったくの無味に思える。調理している人間には味覚がないのではないだろうか。
「どうしたの」
「三月に告白されてな」
倖雄は相変わらず乱暴に食事を進めていたが、その答えを聞くとふんふんと頷いた。
「なんていうかな。やっと、というか」
愛は頷いた。倖雄の目にも三月の愛への好意は見えていたらしい。
「ああ。けど、受け入れてもいいもんかと思ってな」
少し過度に利いた暖房のせいで、春ももう目前だと言うのに汗をかく。味覚にしろ触覚にしろ、この食堂の管理人はすこしばかり常人離れしているようだった。
「ほかに好きな人がいたりするの」
倖雄が問うと、愛は首を細かく横に振った。
「しねえよ。そういう相手の候補は三月本人くらいだろ。他に女友達いないし、中学からずっと仲良いし、人並み外れて性格が悪くも、顔が悪くもない。俺だって嫌いなわけじゃない」
箸を置いて、外に設置してある自動販売機で買ってきたらしい水を飲むと、倖雄は首を傾げた。愛は食べたものを水で流し込むのはどうなのだろう、とそれを見てふと思った。人がものを楽しんで食べないのにはつい過敏に反応してしまう。
「ならいいんじゃないの。家の事情で無理だとかそういうわけでもないんでしょ」
「おまえなあ、簡単じゃないんだぞ、こういうの。恋愛したことってあるか」
倖雄は微笑みながら肩を竦めた。
「実はないんだよね。そういうのにはどうにも疎くって」
それを見て愛はため息をついた。その様子がおかしくて、倖雄はくすりとした。
「何だよ。まったく、相談する奴間違えたかな」
愛は箸を置いた。丼はいつの間にか空になっていた。確かに彼が食べたのだが、どうにも食べた気になれなかった。それが無味だったせいもあるだろうが、苛烈な味以外の何かが味蕾を麻痺させているのだった。
「でも、愛と恋の違いは教えてあげられると思うな。どっちもある一人のことを大切に思うことだけど、恋は苦しさを伴って、愛は穏やかさを伴う。ぜんぜん違うけど、どっちかだけでも当てはまれば充分資格はあるんだと思うよ」
それを聞いた愛の顔は一瞬だけ濁り、彼がおや、と思う前に笑みになった。
「ありがとう、やっぱりお前に相談して良かったよ」
「いや、実は受け売りなんだよ。役に立つかな」
何だよお前の言じゃないのか、と漏らして徐に立ち上がると、彼の頭に手を当ててがしがしと揺らした。ふざけてそんなことをしているのかと彼は顔を窺ったが、その顔は暗く苦しそうに見えた。よほど悩んでいるのだろう。
「で、愛くんは日下部さんに恋してるのかな、愛してるのかな」
大切なのは、前提のようなもの。彼の態度を近くで見ていた倖雄はそれだけは確信していた。付き合っていてもおかしくないほど、確かに。
「それは」
苦々しい顔をしながら、彼は一拍をその単語のあとに挟んだ。
「たぶん、俺が馴染み深いほうだ」
愛という名の彼は言う。
倖雄は嘘だと思った。もしそうなら、どうしてそう切なげな顔をしているのか。けれど、彼はそれ以上深く踏み入ろうとはしなかった。その先が他人の倖雄の踏み込んでいい領域でないだろうことは色恋沙汰には疎い彼にも理解できていた。
椅子を蹴ると、もちろんそれは倒れた。ひどい音を立てて床に寝そべる木の塊に、彼は嫌に冷めた視線を送った。寂寥感に沈む木製のそれは、まるで羽虫の死体を凝視するような優越感と虚無感を彼に与えた。
椅子を見下ろすのにも飽きた愛はベッドに突っ伏した。そのままいつまでも倒れていたいような思いがどっと覆いかぶさってきた。
倖雄の言うとおり、彼女のことは確かに大切に思っていた。なら受け入れてもいいのではないか。
けれど、それを否定する自分がどこかからスコープを覗いているのも彼は感じていた。黒い銃身が、彼自身の中から彼に向けられている。彼女を受け入れたらそのトリガーを引こうという自分がいるのだ。
倖雄にメールを送ろうと携帯を取り出して、書くことなんて何もないことを思い出した。画面を閉じると、それに際して音が部屋に激しく響いた。スナイパーの威嚇射撃だ、と愛は思った。愛の中に飼われている感情が、彼のその判断は間違いだと武力で訴えている。だが、肝心のその感情が名乗らない。彼には何が何を止めているのかも定かではなかった。
一枚ずつ記憶のページを捲っていく。そのスナイパーが彼を覗く場面、威嚇射撃をする場面、また、彼が避けさえしなければ殺しに来る場面。その共通点というのは何だろう。
そして一つの事に気づく。その時々、愛の隣にいるある人の存在だ。愛は笑い出した。馬鹿な話だった。撃ち殺さなければならなかったのは彼のほうだ。間違っているのはスナイパーの方だ。そのスナイパー、右の頭蓋に銃口を当てる自分自身の右手を、彼は左手の拳銃で打ち抜かねばならない。彼はそれを思いながら、痛い眠りに落ちていった。
作品名:like a LOVE song 作家名:能美三紀