like a LOVE song
皿を綺麗にスプーンで掬ってルーを残さないようにして、彼は言った。皿とスプーンの擦れる音がする。レストラン向きな食べ方ではないが、学生食堂の忙しさを気にする彼なりの気配りだ。
「この学校の図書室は良いよね。私も好きだな」
二人の会話を細い目をしながら聞きながら、愛はうどんをずるずると啜った。一応その体裁はとっていたが、その味気なさはただの小麦粉の塊といって差し支えない。
「なんだ、この学校の図書室は依存性でもあるのか」
「あるかもしれない。僕、一回入ってから出られなくなってるもん。来ないと落ち着かないし」
あそこで勉強するとテストの点もいいんだよね、と加えながら、倖雄は残った最後の一さじを口に運んだ。バランスの取れていないスパイスや、炊きたてではないらしいライス部分に不満はあったが、今日は弁当が用意できなかったのでしかたない。
「ま、愛には無縁な話か。国語十五点は伊達じゃないもんね」
「うるせえよ。国語なんて俺のやる科目じゃないね。それよりお前らの最低点はどうなんだよ。自分の事棚に上げて」
面倒臭そうに三月をあしらって、愛はそう訊ねた。
「私は国語の七十三が一番低いのかな。五十点満点は別にすれば」
「僕は英語で一度だけ六十台とったのが最低だと思う」
「ああそうかい。訊ねた俺が馬鹿だったよ」
三月と倖雄はくすくすと笑って、まあ、留年はしてないんだからいいんじゃないの、と言ったが、愛は更に拗ねるばかりだった。見かねて、倖雄はその肩に手を置いた。と、がたんと音を立てて愛は椅子から崩れ落ちた。
「あ、ごめん。大丈夫」
「ああ、悪い。大丈夫だ」
椅子を立て直しながら起き上がり、空になった丼を載せた盆を持つと、容器を返してくる、と言いながら歩き出した。
くすくすという二人の笑い声がそれを追いかけたが、彼がどうやら怒り心頭という様子らしいことにすぐに気づいた倖雄は僕も、と盆を持って追いかけた。
「ごめん、怒った」
「いいや、やっぱり努力する奴には勝てないな、ってな」
彼の見立てとは違い、愛はいつもどおり笑っていた。ただ少し目じりに影があるように見えたのは、彼の気のせいだろうか。
倖雄は、そうだね、僕も日下部さんには敵わないよ、と笑いながら、容器を指定の位置に返す。
と、振り返ると愛が彼を凝視していた。どうかしたのかと窺おうとすると、彼はそそくさと丼を返してじゃあな、とだけ言い残すと去ってしまった。否定していながら、やはり怒っているようだ、と倖雄はその背中を視線だけで追いかけた。スープまで飲み干された丼が所在なげに残されるのと、逃げるような愛の背中を見比べて、一つため息を吐いた。
三月も去る彼の姿が遠く校舎に消えるのを眺めながら、味噌汁を啜った。彼と話すのを楽しみに食堂を選んだのに、どうも巡り合わせが悪かったらしい。
三者三様、いろいろなことを気にしながら、その日三人が一堂に会することはもうなかった。
今にして考えれば、彼には心当たりがいくつかあった。そうして呼び出されるのは恐らくそのことだろうとわかった。自意識過剰でなければ、いや、恐らくないだろう。
もうそこまで迫っているはずの春があと少しというところでやってこないのを思いながら、彼はその公園へ向かった。一段高くなったそこは、町を見下ろす絶景ポイントとして名高かった。何もない町ではあるが、一度にそれを望むその風景は圧巻と言えた。春になれば桜も咲くが、まだもう少し時期尚早だ。今はただ土の湿った匂いのするのみだった。
彼女はもう立っていた。約束の時間まであと一時間以上はある。寒そうな格好をして、両手に息を吹きかけているのに、それでもそのままあと一時間待つつもりだったのだろうか。そして、今までどれだけ待っていたのだろう。
「いくらなんでも早すぎるだろ、三月」
背後から声をかけると、ぎこちない笑顔、言葉とともにベンチに座っていた彼女は振り返った。
「愛だって、こんな時間に来ておいて人のことは言えないでしょ」
渇いた笑いを浮かべながら、愛は彼女の隣に腰掛けた。そこから見下ろすと、彼の住む町は双六の盤面のように矮小に見えた。小さく見える彼の家から学校まで、マス目を作れば大体二十というところだろうか。出目の平均が三なら七巡もかかる。
どちらからも切り出しづらい空気のために、二人は恐るべき万力を唇に感じていた。季節外れの寒さもそれを助長するように彼らを包んでいた。
「ごめんね、呼び出したりして」
「構わない。どうせ暇なんだよ。出かけない時はたいていずっと曲聴いてるし」
そうなんだ、とだけ言って、また彼女は黙り込んだ。息苦しいような表情をして、彼も何も喋らなかった。彼女に語るのを促しているようだ。けれど、彼女のなかでまだ踏ん切りがついていなかった。
「あのさ、今好きな子とか、いるの」
「今と言うか、今までいないな。そういうのとは縁遠い生活をしてきた」
またそうなんだ、としか言えなかった。おそらく言葉にしないだけで、二人ともこの場で伝えられることの内容はわかっていた。だからこそ、二人とも何も言えなくなっている。二人は恋愛ごとにはあまりに不慣れで、経験不足だった。
沈黙が重くのしかかり、寒さと冷たさが二人を取り巻いていた。時折抜けていく風が、遠くの木々をがたがたと揺らすのが吐露を強要する声に聞こえて、彼女は身震いした。
彼はひたすら冷たい顔をしていた。怒っていると言うのでもない。暗記した言葉を、脳裏で繰り返しているような表情だ。彼女は彼が何を考えているのか量ろうとした。が、そうしても現れるイメージはすべてネガティブなものになった。これでは良くない、と彼女はすぐに諦めた。
もうそれ以上の重圧に耐え切れなくなり、彼女はついに口を開いた。
「えっと、私さ」
ああ、と彼の声。詰まってしまう彼女の目は少し涙がちになっている。それに気づいたのか、彼は彼女の頭を撫でた。驚いて顔を見ると、その顔は軽く笑っていた。
「愛のこと、好き」
彼は驚きもせず頷いて、また駆けていった風に身を震わせた。何度か大きく息をしているのが、彼女にも感じられた。先ほどから暗唱していた言葉をとうとう吐き出そうと踏ん切りを付けているように見えた。
「うれしいけど、ちょっと考えてもいいかな」
彼女の想定した否定でも、想像した肯定でもない、仮想した保留の言葉だった。彼女は頷いて、町を再び見下ろした。震えはまだ止まらなかった。
学校の広すぎるグラウンドが、まるで泥をふき取った雑巾のように寝そべっていた。
「おい、倖雄」
呼びかけると、すぐに振り返る顔があった。そういえば、彼が他の誰かと一緒にいるということはほとんどない。いつもひとりで所在なげに移動と準備を繰り返していた。やはりその信条から、誰からもあまり気にかけられていないようだ。
「あ。愛くん」
倖雄は上履きの音を少し滑らせながら彼に近寄ってきた。持っているのは美術の教科書だ。前の時間、彼のクラスは芸術だったのだろう。
「今日は俺、食堂なんだけど、一緒に食べないか」
「いいよ。僕は弁当だけど、そんなに人混んでもいないだろうしいいか」
作品名:like a LOVE song 作家名:能美三紀