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like a LOVE song

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 疑心暗鬼も思案も何の意味も成さないまま、彼らは倖雄の過ごしたアパートの前にたどり着いた。彼女は表向きには何事もないような顔をしていたが、彼の表情は突如として冷淡になり、何事か思いつめるようなものになった。彼女は何か取り返しのつかないことをしてしまったのではないかと激しい自責に身を焼かれながら、彼の様子を一つも見逃さないように窺っていた。
 彼はアパートの領地には足を踏み込まず、先ほどまでの笑顔から想像のつかないような冷たい表情をして呟いた。
「何だか寂れたところですね。ここだけ時代から取り残されたみたいだ。あいつはここに住んでたんですね」
「ええ、何度かお邪魔させてもらいました。私と彼は大学からの友人で、懇意にしてもらいました」
 先ほどまでの猜疑が嘘のように消えるのを彼女は感じた。彼の表情が、何か悪巧みをしているようには見えなくなったからだろうか。
 そうなってみると、倖雄の友人であった彼の存在は、彼女に倖雄のことを克明に思い出させた。少し薄れかかっていた死の重みが、波のように覆いかぶさってくる。
「どういう関係だったんですか、あいつと」
 彼はそう訊ねた。彼女は誰に打ち明けることもないだろうと思っていたそのことを、こぼしてしまうように口にした。
「同じ学部で、仲良くしてもらって、それで」
 彼女は言葉を選び取りはしたものの、それを口にしていいか迷っているようだった。恋は表情を変えもせず、視線を彼女に向けもせず、ずっとアパートを見ながらその言葉の続きを待った。
 幾許かの沈黙のあと、彼女は徐に口を開いた。
「好きでした。振られちゃいましたけど」
「そんな勿体ない。美人だし、気質も悪くなさそうだ」
 彼女は恐縮して首を振った。彼も口説くつもりはない。誤解されなければそれでいい。
「昔に振られたのをまだ引きずっていると言っていました」
「ああ、あのことを」
 鳴海明里のことを思い出す。当時は嫉妬に燃えもしたものだが、幸か不幸か彼女との直接の接点は最近までなかった。
 興が乗って、彼は彼女に向き直ると、
「鳴海明里っていう作家、知ってますか」
 と問いかけた。それを知ることによって彼女が何を思うかは知らない。落ち込めばそれはそれで恋敵へのささやかな復讐として意味を持つし、笑ってくれるのなら、彼女から倖雄の情報を聞き出しやすくもなる。
「ええ、はい。私、ファンですよ」
「その人なんですよ。あいつの初恋の相手。一つ下の後輩だったんですけど、そのときにはもうライトノベルを数刊出版してたかな」
 茜は驚いた顔をして彼に向き直り、泣き出しそうだった顔を驚愕のそれに塗り替えた。
「え、そんなことってあるんですか」
「世界は狭いもんですね。榎本さんに会えなければここまで来れなかったですし」
 茜は頷いた。
「そうですね、あと少し遅れればここはもう取り壊しになっちゃいますから」
 それを聞くと、恋はもう一度アパートを見つめなおした。
「間に合って良かったな。生きてるうちに来れたらよかったんだけど。あいつの部屋、見てみたかったような気もします」
 寂れたそこは、確かに取り壊しになっても仕方がないように見えた。彼の里ではこういった建物がほとんどで、それらは大方問題なく経営を続けているが、良品志向の世の中では、こうした安価だけが売りのアパートはもう流行らないのかもしれない。生き残れないのかもしれない。
「もしかしたら、見れるかもしれませんよ。流石に家具とかは撤去されてるかもしれないですけど」
 恋はその発言の真意を汲み取れず、怪訝な顔で茜を見つめる。
「大家さんにまだ鍵返してなくて。今も持ってると思います」
 彼女はそう言って鞄の中に手を突っ込み、銀色の鉄片を取り出した。
「もう取り壊しになるから、たぶん鍵も変わってないでしょうし、入ってみませんか、部屋の中」
 恋は少しの逡巡もせずに頷いた。
「じゃあ、行きましょうか」
 その必死さに、彼女は猜疑の心を解いてしまった。処世術として人を信用しすぎないことを身につけはしても、彼女の実際の性格はどんな話だろうがどんな人だろうが絶対に近い信用を置いてしまうものだ。ほんの少しでも彼女の嗅覚が安心を感じ取れば、たちまちその疑心は晴れきってしまう。
 二人は茜の先導でアパート側面につけられた、いつ崩壊するだろうか、と心配になるほど錆びた鉄の階段を登り、二階の一室を目指した。遠野倖雄、と整った字で書かれた表札が見えて、二人は立ち止まった。
「ここでした」
 茜はそういうと、銀色の鉄片を彼に差し出す。
「鍵、開けますか」
 恋は頷くと、その鉄片を受け取った。よほど強く握っていたのか、それにはもう彼女の体温が少し移っている。
 大きく呼吸をして、その鉄片をドアノブの鍵穴に突き刺す。少しの抵抗もなく、それは挿入され、回すと小さな音とともに錠は開いたようだった。彼は逸る気持ちを抑えもせず、そのドアを開いた。
 生活の跡がほぼ完全に撤廃された、小さな一室があった。家具はまったく残っていない。少し磨り減った畳が、それでも誰かが住んでいた痕跡を少しだけ残していた。愛の知るところではなかったが、その部屋は明里の住んでいた部屋によく似ていた。
「日当たり、良くないですね」
 恋は愛の家を倖雄が褒めていたのを思い出した。洗濯物とかよく乾くでしょ。
「そうか。そりゃ、あの家は日当たりいいよな、よく乾くよな」
 瞼の裏が熱くなるのを覚えた。涙はいつこぼれてもおかしくない。頬を筋として伝ってはいないものの、もう目じりには熱い液体が水溜りを作っていた。
「水下さんはどんな関係だったんですか、彼と」
「小学校からの友人でした。いい奴でしたよ。昔あいつに二円貸したことがあったんですけど、それを思い出して、一回カラオケに奢りで連れて行ってくれたこともありましたし、悩みの相談に乗ってくれたのも、心の支えになってくれたのも、いつもあいつでした」
 茜は窓から外の風景を見つめる恋に、何と言葉をかけていいかわからなくなり、彼の頭の向こうに広がる見慣れたビル群を透かして見つめるようにしながら、じっと彼が言葉を続けるのを待った。
「でもあいつと、一回だけ疎遠になったことがあって。とはいっても自分が勝手に拒絶したんですけど。言っても、気分悪くしませんか」
「たぶん大丈夫だと思います」
 彼がためらうようにするので、彼女は注意深くそれを肯定した。彼は頷いて何度か語りだそうとしたが、うまく言葉が見つからないようだった。ゆっくりと頭を揺らすようにしながら思案して、切り出すタイミングをはかっているようだ。
 時間は重く強い奔流めいて、その見た目にあまり進んでいないように思える。時間の流動は確かに速度も濃度も変える。彼女はそう実感する。
 幾星霜にも思える何分かのあと、彼はようやく口を開いた。
「俺、たぶんあいつに恋してたんです。そんなのおかしいでしょう、だからあいつと距離をとって、忘れようとした。けど、無理でした。結局仲直りしてしまって、また同じ思いを抱えて生きることになりました。その恋心の封印には、恐ろしく時間がかかりました」
 恋心として封印されるまで、恐ろしく時間がかかりました。恋はそう言い換える。
作品名:like a LOVE song 作家名:能美三紀