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like a LOVE song

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 彼はそんな行き場のない怒りを抑えようと、買ってきた「点滅する猫」の絵本を開いた。猫も彼と同じように、行き場のない悲しみを背負っていた。その体は点滅する。いたと思ったのにいない、いないと見えたのにいる。その性質から、猫は他の動物たちに嫌われる。
 きっと自分も、と愛は震えた。きっと自分も、胸の内を吐露してしまったらそうしてはみ出してしまうに違いない。猫はハッピーエンドを迎えたが、それは絵本だからだ。現実はもっと救いがない。現実はもっと残酷で、現実はもっと辛辣だ。
 愛は布団に隠れた下半身を引き寄せて丸く座った。膝に額を当てて、目を閉じる。
 もう何も見たくないとさえ思う。もう恋に体を譲ってしまいたい。そうして倖雄と同じ場所へ逝けたらどれだけ幸せだろう。
 けれど、と三月の顔を思い出す。彼女のことを、彼女との間に生まれた二人の子どものことを、捨てて死んでもいいだろうか。問うまでもなく答えは出ている。そんなことはたとえ冗談でも思い浮かべるべきではないのだ。
 それでも愛には、その痛みをもう一度きっちり背負って生きていくだけの気力も体力もなかった。今すぐにここに来てその刃で俺を殺せ、と願う。けれどそれをすぐに否定する自分もいる。
 自殺など考えていることを責める自分がいる。自責の末、自殺を思う自分がいる。二人の自分がただ殴りあっている。その痛みの余波も彼を焼く。
 喪失の痛み、自責の痛み、恋愛の痛み。幾つもの痛みが彼を多重に突き、刺し、切り、削り、焼き、潰し、殺していく。
 焦れつく体がすべて芯から離れていくような感覚に震えて、彼は奥歯を強くかみ締めた。その痛みで意識が朦朧とするほど。そうする方が、ただ思考の痛みに耐えているより幾分もマシだった。その手にもしもナイフがあったとしたら、彼は間違いなくそれで自らの体に現実の痛みを刻んでいったことだろう。けれど、その病室に刃物はない。
 彼は幾つもの涙を落とした。それはいつか滝の流れのようになって、彼の寝巻きを濡らした。

 恋は走った。どこまでも続く愛の世界を。
 光速で拡大する宇宙を思い浮かべる。どこまで行っても果てと呼べる果てはない。果ては常に遠くへ遠くへ遠ざかっていく。彼は光速どころか音速にも遠く届かず、精精が時速五、六キロのスピードでしか走れない。それを維持するのが何とかできているのは、彼の思いの強さゆえだ。それが折れてしまったら、すぐに愛の世界は彼を置いていく。
「おい、愛。待ってろよ。お前を殺してやるからな」
 彼は自分への激励にそう絶叫して、まだ全力で疾走を続けた。
 愛の世界は混沌だ。ビル群を抜けたかと思えば次は活気溢れる商店街にさしかかり、水下豆腐店を曲がるとずっと遠くまで花畑が続いている。どこまでも続くケシの花畑だ。彼にとってその花がどんな意味を持つのかは、恋には関係がなかった。恋はただ愛を殺すために彼を探している。愛を理解するために走っているのではない。
 どれだけ走ったか、いつかケシの花畑は夜空に変わっていた。恋は理科室の暗幕のような暗黒のベールを、星々をちりばめた漆黒の空白を、彼はスピードも緩めずに走った。音楽が流れ出す。益体もない、八十年代の売れもしなかった曲たちだった。恋はそれを耳にも入れずに走った。彼の耳にはもう自分の肺が限界を超えて稼動する音と、心臓が破裂しそうなほど脈動する音の他に何も聞こえてはいなかった。
「おい、愛。ついてこいよ。俺に殺されないように世界を広げろよ。自分を隠せよ」
 気がつくと、愛の家の中を彼は走っていた。いや、走っているのかどうか、彼にはわからなくなった。今までは走るにつれて背後へ消えていった景色が、今度は違う。彼が足を進めるにつれて同じスピードでコマが移り変わっていく。彼が父親と衝突している場面、テスト勉強に疲れて水を飲んでいる場面、アーチャーとの戦いに疲弊して眠りに落ちていく場面、三月を紹介する場面、仕事のために通っている場面、そして今に追いついて、追い抜いたときにはその景色はなくなっていた。
 なくなってはいるのだが、恋は水下豆腐店から自分が飛び出してきたのに気づいた。そこは先ほど通り過ぎた活気溢れる商店街に違いなかった。横に折れればケシ畑へ出よう。まっすぐ先へ進むしかない。彼は悩んだわけでもなく一瞬でそう判断して駆け出す。
 やがて、眼前には三日月が現れる。きっとそれは、彼が愛しているものに違いなかった。
 恋は手にした矢の先端で、それを殺した。

 愛はふと思った。三月はそんなに大事だろうか。
 自分の愛を捧げるに足る相手だろうか。
 普段の彼ならその答えは決まっていただろう。もちろん大事に違いない。
 恋と愛の取捨選択で悩みこそしたが、彼女でいいのか悩んだことはない。彼女は愛を捧げられるほどには魅力的な女性だった。少なくとも愛にとっては。
 だがそのときの彼は、その答えに窮してしまった。
 もしこの鋭く鈍く重い痛みから解き放たれるのなら、三月くらい代償として差し出してもいいのではないだろうか。

 その後も、彼が愛する存在が幾つも現れた。豆腐は恐らく正行だろう。彼の実家そのものは、彼を受け入れてくれる母に違いない。
 天球のハイビスカスは恐らく静美だ。特撮ヒーローのおもちゃは希だろう。豆腐店の看板は、水下豆腐店の看板そのものだろう。
 恋はそれを殺しながら走った。愛の世界を壊しても、恋は傷つかない。どちらにせよ、身を投げるためだけに体を奪うのだから、その精神がどれだけ荒れようと構わない。
 恋には愛がない。静美を、希を、両親を、豆腐店を、そして三月を忘れようと、彼自身の心のどこも痛みはしない。
 そして、日本宇宙開発センターの名札。それは、誰へのものか。
 恋はそれだけは殺さず、上着のポケットに突っ込んだ。これだけはいくら死にいくだけの体だろうと譲れない。
 そしてその先に見えた病院に駆け込む。途端、去来した部屋番号を目指した。
 その一室までは一瞬で辿り着いた。ようやく彼は立ち止まる。ネームプレートを見ると、「水下愛」の字が掲げられている。
 倖雄の名札を握り締めて、その扉を開けた。

 そして、三月のことを捨ててもいいように思えてからは、すべてのことがどうでもいいように思えてきた。
 両親のことも、二人の子どものことを、豆腐店のことを。他にも彼が愛する、世界の一端たちのことも。
 それを忘れていく。それらを忘れていく。そして忘れるほど、彼の心は恋に近づいていく。彼から遠ざかっていたはずの病棟が、彼にどうしようもなく引き寄せられていく。
「その方が、傷つかない」
 もう愛は愛の名をなくしていた。彼が愛しているのはもう倖雄きりだ。
 そしてその輝きだけしかない以上、彼は倖雄を追いかけて逝くことに何の不平もなかった。
 ただ、目前の痛みから逃げ出したい。その思いにすべてを支配された。
 もう耐えられない。早く来てくれ、恋。
 そして、病室の滑車が回った。

「よう、愛」
「おう、恋」
 彼は自分の目が自分を見つめているのを、自分の目で見つめた。悲しげな顔をしている。整ってはいるが美形かといえばそうでもない。疲弊している。そして、恋している。愛している。その対象はたった一人。
作品名:like a LOVE song 作家名:能美三紀