like a LOVE song
高校生時分、倖雄と仲違いをしていた頃にはいくらかの作品を読み、いくらかの共感をし、いくらかの感動をしたが、それでもやはり読書習慣はつかなかった。
静美に連れられて児童書のコーナーへ向かう。静美は雑読派で、児童書や絵本の類も読めば、純文学も読む。ただその選定は彼女の感性に引っかかる何かが要るようで、本なら何でも読むというわけではなさそうだ。実用書のようなものにもまだ興味はないらしい。
そうして新刊から琴線にかかる本をじっくりと選び出す姿は、豆腐を作っている三月に、また自分に似ている、と彼は思った。もしかすると、スペースシャトルの設計をする倖雄にも似ているのかもしれない。
「人が本気で作るもの」
だとしたら、静美は彼女と本との間の縁を作っているのかも知れなかった。人と人のそれもそうであるように、人と物の縁もそう簡単には作れないのだろう。寝食も断つような、神経を磨り減らすような、緻密な作業に違いない。
そう思うと、彼は今まで自分がそういう縁を作ろうとはしなかったかもしれないように思えてきた。ふと思い当たった愛は、静美が凝視する新刊の棚の横、既刊本の中から自分の琴線に触れるものがないかを探し始めた。
「お父さん、私、これがいい」
それを遮るように、静美が愛にその本を手渡した。「りゅうと私の家」。
「ちょっと待ってな。お父さんも何か買おうと思うんだが」
そうして本棚に目を走らせると、ふと一冊の本に目が当たった。「点滅する猫」。
彼は引き寄せられるようにその本を手にとった。どうもそれは絵本のようだった。生々しい猫の表情に合わせて、淡白だが整った文章が加えられている。
「よし、これでいいか」
その二冊を提げて、レジに向かう。代金を払い、釣りをもらう。袋は静美に任せた。これでまた二つ、新しいものが作られたのだと思うと、どうにもならないような嬉しさが彼の胸のうちにこみ上げてきた。
なるほど、その嬉しさは改心の出来の豆腐を見たときのそれにそっくりだった。
恋はあくびをした。
せっかくの再会にも、愛の心は彼を監視状態に戻しはしなかった。嫌ったわけではないにしろ、彼のうちでその思いの置き場所がどこかにできたのだろう。彼は目を覚まさせられこそしたが、仕事を与えられはしなかった。愛は恋を人格として想起しているにすぎなかった。
「結局俺のことは飲み込んでくれないんだな、愛」
こうして再会を終えても、彼の心に残る波紋は昔ほど痛く激しくはないものだった。彼がいる以上まだ倖雄を気にかけていないわけではないのだろうが、それが恋の担当分野から他に外されようとしている。
彼はせっかく研いだ矢をへし折った。もうそれを使うときは来ないに違いなかった。三月と静美、希、両親。それら彼が現在大切にしている者たちによって、恋は監禁されているような状態だ。机に向かって、椅子に深く腰掛け、ブラウン管に映し出される愛の映像をみて彼と一緒に一喜一憂する。それ以上の手出しは、もう彼にはできない。
本物の愛は時間では絶えない。けれど、恋はたとえ本物だろうと時の移り変わりと共に絶えてしまうことがある。かつての栄華がどうあれ、老化する恋は劣化の一途をたどる。美化されることはあっても、当時のような輝きに満たされることは永劫ない。愛は強く、恋は淡い。
彼は自分の体が消滅していくのを感じていた。視聴覚室にいた彼は、迎えにも来ない愛と融合することになる。
「いいけどよう、愛」
恋は恐らく最後だろう、届かない独り言を呟く。
「あいつのこと、忘れはすんなよ」
愛と恋は一つになっていく。もう彼に足はなかった。不満もなかった。
希が不平を訴えたので、彼には特撮ヒーローのおもちゃを買い与えた。嬉しそうにはしゃぐ希の姿に、三月は中学時分の愛を見たような気がした。
「愛もあんな風だったな」
「ああ。好きな作品の物は欲しくなるもんでな」
オタクとは言えないにしろ、彼は収集癖を持ち、欲しい物を買いに行くためならその虚弱な体を駆ってこのデパートまで自転車を駆ったものだ。
「グッズいっぱい持ってたよね。あの顔と一緒だな、と思って」
三月は体の大きさに不釣合いな大きい箱を抱えて歩く希にちらと視線をやった。愛もそれを見つめて、「そういえばそうかもしれないな」などと呟いた。
「男の子ってあんな感じなんだね」
「そういうのは男女差なのか。お前はどうだった」
「私はあんまり。買ってもらったら喜んだけど、多分愛ほどは欲しがってなかったよ」
愛は唸った。彼は顔が広かったが、あまり女友達も姉妹もおらず、交際したのも三月だけだった。そうした男女の差には彼はとても疎かった。
「じゃあ、服も要らない」
「服は要るでしょ。まさか全裸で外へ出るわけにはいかないし」
「そりゃそうか」
公衆の目を気にしてか、控えめに笑う愛につづいて三月も笑った。お互いの買ってもらったものをじいと見つめていた希と静美は、何事かと両親を見つめながら、婦人服売り場へ向かう彼らを追いかけた。
売り場へつくと、三月は服の選定を始めた。やはり真剣だ、と思いながら彼はその様子をまじまじと見つめた。もし思い通りのものが見つかれば、ここにもまた縁ができるのだろう。
数学的には、百人の人間がいたとき、ほぼ間違いなく一組以上は同じ誕生日の人間がいるという話を聞いたことがあったのを愛は思い出した。この不思議な縁もそういうものなのかもしれない。売り場全体でどれだけの服があるのか知れないが、二百以下ということはないだろう。そのうち今このとき縁が出来るのは精精一着か二着だ。それ自体は不思議なことではないが、その二つを何かに限ったとき、その可能性は恐ろしく低くなる。同じ日に生まれた人間がいるのがほぼ百パーセントであっても、特定の日が生まれた人間が二人以上いる確率は恐ろしく低いのだ。
出会うのは必然でも、出会ったのは偶然ということか。
どんな服が似合うかを虚ろに見定めながらそんなことを考えていると、急に懐の携帯が震えた。どうやら電話らしい。発信者は彼の実家になっていた。
「もしもし」
「ああ、愛。もう連絡来た」
彼の母の切迫した声がした。普段おっとりしている彼女がそうも慌てるのは珍しい。彼もつられてすこし身を緊張させた。
「何も。何かあったの。父さんが倒れたとか」
「違う違う。遠野くん。交通事故に遭って死んだって」
途端、世界が止まる音を聞いた。
作品名:like a LOVE song 作家名:能美三紀