like a LOVE song
ため息を吐く。そんなに自分に素直になることは悪いことだろうか、と彼は思う。曲がりなりにも「愛」という名を持った彼が、自分の愛を信じられなくてどうする。と、突然倖雄の言葉を思い出した。
「恋は苦しさを伴って、愛は穏やかさを伴う」
だとすれば、彼は確かに愛には悩んでいない。恋をすることにこそ彼の苦悩はある。
「そうか、なるほど。わかったよ愛」
それはお前には理解できないはずだよなあ、とアーチャーは笑った。彼が「愛」だとすれば、差し詰め彼は「恋」だということになろう。
恋は思いがけず訪れた自分の名前の獲得に感動を覚えた。無機質だったスナイパー、アーチャーではなく、恋という血の通った名前だ。あまり男性的でないのが少々気に障ったが、相手を考えればそれでも問題と言える問題はない。
この苦しさがどれだけリアルで、お前が甘んじている穏やかさがどれだけ空想的か。嘲って笑うのは自嘲になるのだろうか、と思いながらも、彼はただ笑った。
愛が譲らないように、恋もまた譲らない。愛が意識を取り戻しても、恋は今度は眠りに就きはしなかった。
三月の機嫌は、起床からいいとはいえなかった。何に怒っているか、どれだけ怒っているか、わからないではないだけに愛は心苦しかった。ただ彼のわがままのために、十年目の祝いが一度伸びてしまったというのは、彼に申し訳なく思わせるには充分の出来事だった。彼とて、出来ることなら祝いはその日にやりたかったのだ。
「三月、ごめん。あんまり怒らないでくれよ」
「怒ってないから。ほら、はやく朝ごはん食べちゃってよ」
夢見が悪かった所為か起床が遅れて、静美も希ももう学校へ出かけてしまっていた。家に残っているのは二人だけだ。
ご飯と味噌汁を食べながら、朝のニュースに耳を傾ける。事件はないわけではない。誰かが死ぬことも、強姦されることも、物を盗られることも、彼の身の回りでは起きていないだけで誰の身にも起こりうる。そしてそれが起こったとき、他の人が気にしないような些細なニュースであろうが、当人にとっては人生を揺るがす大事件になる。
彼はその同情に意味のないことを知りながら胸を痛めて、その被害者たちにささやかな祈りを捧げた。これから彼らにいいことが起こりますように。どうか悪いことが起こりませんように。そして、三月の機嫌が直りますように。彼には最後のそのことが一番差し迫った事件だった。
朝食を食べてしまうと、家の掃除を始める。眠りに帰って来るだけ、という日も結構あるので家の中はそうごった返してもいないが、人を迎えるには少し不十分だ、と三月が主張したためだった。
あまり帰って来ないために汚れにくいのはそうだが、片付けられにくい側面もある。そう特別な環境に置かれた家というわけでもないんだな、お前。愛は片付けながら家にそう語りかけた。彼は寡黙に、愛たちが背中を流してくれるのをただ甘受していた。
いつか喋りだす家の話や、意識のある家の話をどこかで読んだ覚えがある。この家もそうして語りだしたりお茶を出したりしてくれればくれたら愉快なのに、と一人ごちた。
三月の指令のもとに動くと、部屋はあっという間に片付いてしまった。褒めようか迷ったが、変に気をつかっても雰囲気を更に損ねるだけの未来が見えたような気がしたので何も言わないことにした。そのうち機嫌を直してくれるだろう、たぶん。三月にしても、倖雄と会うのが嫌なわけではないだろうから。
時計を見上げると、まだ十時になったばかりだった。倖雄が来る一時までまだまだ時間がある。彼は紅茶を淹れて呑むことにした。愛はため息をつきながらやかんを火にかけた。テーブルについてそれが沸くのを待っている間に、三月も台所に現れた。彼女も持ち場の掃除を終えたのだろう。
「紅茶飲むか」
「要らない」
愛は肩を竦めると、沸いた湯をティーカップに注いで、ティーバッグをつけた。砂糖を大さじ二杯入れると、口をつけて啜る。猫舌の彼はゆっくりと一口ずつ口に含んでいく。少し甘すぎる砂糖の匂いが口に広がる。
「ねえ、遠野くんが来たらどうするつもりなの」
「どうする、っていくつかしたい話をするくらいじゃないか。今日中に車で帰るらしいから、酒を呑ませるわけにもいかないだろうし」
「友人を犯罪者にさせるわけにはいかない」
「そういうこと」
愛はまた紅茶に口をつける。
「そうだ、豆腐を貰ってこないと。食わせたことなかったからな、うちの豆腐」
「なるほど」
三月は納得したように頷いた。
「来るのは一時でしょ」
「そう言っていた」
「じゃあ、まだ時間はあるね。私が行って来ようか」
愛は少し思案してから口を開いた。
「どうせなら一緒に行かないか。埋め合わせってわけじゃないけどさ」
掃除をしてすこし落ち着いたのか、三月の機嫌は直りつつあるようだった。このまま普段の彼女に戻ってくれればいいのだけど。彼は思案をしている彼女の様子を窺った。
「じゃあ、そうしようか」
すこしぎこちなくはあったが、幾分かいつもの三月らしい笑顔がそこにはあった。彼も微笑みで返した。
「よし、じゃあ出かけるか」
愛は少し無理をして紅茶を全部流し込むと、三月を伴って外へ出た。正行宅まで急がなくてもそう時間はかからないが、もうすぐそこに久々の再会が控えていることに彼の気はやたら急いていた。その様子が三月にはあまりにおかしくて、先ほどまでささくれていた気分が、少しずつ整えられていく感触を覚える。
この人でよかったのだ、と三月は思う。気に入らないところも少なくないけど、気に入っているところも少なくない。
少し早足で歩く愛に、彼女も少しだけ急いでついていった。
インターホンに応えて玄関の戸を開けると、立っていたのは倖雄その人だった。すこしやつれたようだが、彼とて元々あまり健康と言えるほど健康ではなかった。それでも愛の病弱さには並びもしないが。
「おう、お疲れ。流石に夜通し走らせるのは疲れるだろ。まあ上がれよ」
「うん。お邪魔します」
愛はどうぞ、と言いながら居間に招いた。白で統一された家具が並んでいる。この意匠は三月のものだ。
「いい家だね。広いし、日当たりいいし。洗濯物とかよく乾くでしょ」
倖雄はきょろきょろと部屋を見回しながら言った。それを聞いて、ようやく新居に招くどころか、卒業後は顔を合わせるのが初めてなのを思い出した。
「視点がさすが独身貴族だな。でも、いいセンスしてるよ。三月は」
「愛くんはどうなの」
「俺の部屋、来たことあるだろ。当時から変わっちゃいねえよ」
八十年代のCDたちと、それなりの再生機構。あとは乱雑に買われた漫画や本の類。それを格納できればいい、とばかりに投げやりに置かれた本棚と、ベッド、勉強机。以前の彼の部屋は統一感というのをできるだけ撤廃したようなものだった。今でもそんな混沌とした空間をこの小奇麗な家の中に設けている。
「ステレオだけいいやつがあったよね。CDは微妙なのしかなかったけど」
「うるせえよ。今はもっといいやつあるぜ。あれと比べるとだな」
「ああ、もういいもういい。聞いてもわかんないから」
「なんだよ。せっかく話してやろうと思ったのにさ」
作品名:like a LOVE song 作家名:能美三紀