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like a LOVE song

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 愛は否定も肯定もせず、笑顔だった。以前は倖雄の話題を出すと、影を落とすことがあった彼だが、もう近頃はその名を聞いても特に思うこともないようで、いつもどおりの彼の調子を崩すことはなかった。結局、振り切るには十年もかかったのだ。豆腐を作ることも三年で習得しきった彼が、人生で一番時間をかけたのはそのことかもしれない。少なくとも、三月と出会ってからの人生では。
「なんで静美のことばっかり気にするの」
 希はまた不服そうに三月に抗議をした。
「姿が見えなかったから。希のことが嫌いなわけじゃないよ。二人とも、大好き」
「なんてこった、自分の子どもに浮気されるとは思ってなかったな。それに静美ちゃんは女の子ですよ、お母さん」
 それを聞いた愛は、希と同じような顔をして訴えた。その顔があまりにそっくりで、三月は吹き出した。
「やだ、お父さんと希、顔そっくり」
「何だと」
 愛は彼女の言葉に反駁する。
「お父さんとそっくりなんてやだ」
「お前もちょっと待て」
 愛と希は睨みあった。その睨み方もそっくりで、三月はくすくすと笑い続ける。ちら、と横目でその顔を見て愛は、少し希の存在を邪魔に思った。彼さえいなければこの場で唇でも奪ってやるのに。今日は二人の、大切な日なのに。
 けれど、今日の我が家の主役は愛と三月ではなくて、小学校の入学式を終えて帰ってきた彼に違いない。視線を元に戻すと、彼はまだ睨んでいた。愛は破顔すると、その髪をかきまわした。
「何するんだよ」
「生意気言った罰だ、苦しめ」
 わざとらしい声付きで悪役のように笑いながら彼の頭を少々強めに撫で続けた。それは乱暴ではあれ、愛なりの愛に違いなかった。

 夕飯前には愛たちも自宅へ帰る。必要最低限の会話だけが交わされて、彼らは正行宅の裏口から外へ出た。正行たちはもう少しだけ店を開ける。売り切れればそこまでだが、それもなければ六時までは店を開けている。
 静美は愛に、希は三月に手を引かれながら家までの二百メートルを歩く。
「ねえ、お父さん」
 と静美が声をかけた。基本的に無口な静美が自発的に声をかけるのは敬愛する父くらいだ。
「何だ」
 朗らかに問うと、少し顔を赤らめて申し訳なさそうに言った。
「もう、御本読んじゃった」
「やっぱり速いな。何読んでたんだっけ」
「天球のハイビスカス」
 ああ、と思い出す。倖雄の片思いの相手だったらしい、鳴海明里の書いた本だ。彼女がこの間豆腐店に寄ったときに置いていったものだった。巻頭にはもう形の出来上がった彼女のサインが添えられている。オークションにでもかければそれなりの値がつくかもしれない。彼女はそれくらいには作家としての名声を掴んでいた。彼女が書いたというだけで朝のニュースのブックランキングはそれを取り上げた。テレビに出る仕事もどうやら引き受けることが増えているらしく、時折その姿を見かけることがあった。
 愛とは親交がなかったのだが、三月とはメールでだが連絡を取っていたのだそうだ。
「面白かった」
「うん、好きだった」
 彼の知る限りそれは児童書とはいえない作品だった。人間模様はグロテスクであり、表現は難解で、背景は過ぎ去った過去の匂いを漂わせている。小学二年生のために書かれた本だとはとても思えないのだが。
「すごいな、父さんも読めるかな」
「お父さんなら大丈夫だよ」
 と静美は屈託なく笑う。愛も笑顔でそれに応えた。三月が湿度を含んだ視線でこちらを見てさえいなければ、もう少し快く娘との会話を楽しめるのだけど、と愛はほくそ笑んだ。三月は希に、愛は静美に取られる時間が増え始めて、夫婦は互いに嫉妬を張り巡らせていた。二人の愛は冷めることを知らず、丁度良い温かさに留まりつつあったが、そうして子どもに相手をとられる時間にはその熱がまるで性質の悪い風邪でも引いたように上昇する場合があった。だが、希から愛へのライバル心のようなものを除けば、彼らの家庭はいまだ行き詰まりを覚えず、概ね温かく豊かだった。極端に仲が悪いなどと言うこともない。
 もう暮れかける町を歩きながら、愛は幸せを噛み締めた。静美と繋いだ左手につい力が入り、彼女は痛いと文句を言った。

「もうテンカウントだな」
 酒に口をつけながら、愛は言った。静美と希はようやく眠りについた。漸く手に入れた二人きりの時間の、切り出し口の言葉がそれだった。
「何がよ」
 アルコールを受け付けない三月の手には酒ではなく茶の注がれた湯のみがあった。身を入れて見ているわけでもないテレビから愛に視線を移して、一口啜る。
「三十路までだよ。高校でてからで言えば大体十年か」
「ちょうど十年。先月の末にね」
「早いよなあ。十年なんて永遠だと思ってたのに。もう一昔前って言われるんだよな、あの頃が」
 倖雄との関係に悩んだあの頃を思い出しかけて、彼はもう一口酒を含んだ。
「お父さんは若かったよね。どうでもいいことでウダウダと悩んでたでしょ」
 それを悟ったのか、三月は愛が逃げ出そうとしたその話題を投げかけた。愛はため息をもってそれに答えた。
「言うなよ。大体、思春期なんてみんなあんなものだろう。それが家族のことだったり、恋人のことだったり、自分のことだったり、友人のことだったりするだけだ」
「ねえ、いいこと言ったつもりなの」
「そういう事聞くか、普通」
 いやらしく笑う三月に愛も言葉ではきつく当たったが、その表情は忌憚のない笑顔だった。夫婦とは便利だ。ある程度までは冗談にできてしまえる。喧嘩も多くした恋人の頃とは違う。それでも、二人は互いに愛を感じていた。あの頃のまま。
 進学をした倖雄からの便りはもうない。最後に届いたのは三年前の年賀状だ。それによれば、彼は宇宙開発センターで働いているらしい。田舎町の豆腐屋と宇宙開発センターの職員が同じ高校の友人だったというのは少し変わった事実にも思えた。
 旅立っていった彼らの友人たちは、思いもよらない職業に就いている。明里は今や老若男女問わず知られる人気作家だし、昔からの夢を追いかけてプロ野球選手になった者もいれば、どうした挫折か時折深夜番組で見かける程度の売れない芸人になってしまった者もいた。教師になった者もいたし、漫画家を目指しているらしい者もいた。彼らのように早く結婚した者もいたし、今でもそうした話を聞かない者もいる。
 対して愛はと言えば、家業を継いだだけだ。それが嫌なわけではないが、つくづく人生の、或いは人間の可能性の多様さに驚嘆もするというものだ。
 二人とも、ぼんやりとテレビに視線を送る。今を逃せば機はない。なかなかその言葉を言い出せずにいた愛だったが、意を決して口にした。
「覚えてるか、今日」
 三月は、すぐに笑顔を湛えて彼を見つめた。湯のみを取り落としたりはしなかった。
「もちろん。覚えててくれたんだ、愛」
「ああ、三月。名前で呼び合うのも久しぶりだな」
 四月九日。彼らの息子の希の入学式だったこの日は、彼らが籍を入れてちょうど十年になる、二人の結婚記念日でもあった。
 二人とも両親に拒まれなかったのは、恐らく愛の両親と三月の両親が顔なじみのある間柄だったからだ。商店街の名のある豆腐屋というのは、そこを利用する人間の多さから顔が広い。
作品名:like a LOVE song 作家名:能美三紀