like a LOVE song
と倖雄は声を張り上げた。何人かは振り向きもしたが、そもそも言うほどの人数がそこに残っていはしなかった。
「謝っておいて欲しいって頼まれた。いくら振られたからって荒んで連絡とらないのは感心しないな」
三月の言に、頬を掻く倖雄。参った、というような風だ。
「ごめん、気が立ってたんだと思う。普段ならあんなことしないんだけど」
「そうだよね。私にもそれくらいはわかる。というわけで、今日にでも謝りにいきなさい」
「はい、先生」
ずるずるとうどんを啜る倖雄をほほえましげに見つめるようにしていた三月だが、トルコ行進曲が鳴るのを聞くと立ち上がった。
電話を受け取ると、松崎からの電話だった。
「はい、鳴海です」
「おはよう。もう聞いたかな。「サボテンミラージュ」のアニメ化の話」
ため息をついてイエスの返事をする。彼女の意図に背く映像化だが、作品は会社のものになってしまい止めようもない。
「何か君の方から要望はあるかな。出来る限り飲もうって話だったけど」
「好きにやってくれれば構いませんよ。ただ、お仕事頑張ってください、とだけ伝えてください」
皮肉に近い激励のメッセージを伝える。
昨今のアニメ業界の飢饉は彼女の耳にも届いている。いくつかの人気スタジオ作品を除いたほとんどのアニメは利率の悪いマシンガンの弾の一発に過ぎず終わる。サボテンミラージュとて、彼女に言わせれば文章だから面白いのであって、動画にしたところでどうという面白みのあるわけでもない。単純なボーイミーツガールだ。巷には小砂利のごとく氾濫している。
「鳴海ちゃん、やっぱりもうライトノベルレーベルから本を出すつもりはないのかな」
「ええ、書こうにももう書けませんから。決してライトとはいえないライトノベルにはあまり興味ないです」
君の作品は最初からライトとは言いづらかったように思うけどなあ、と甲高い笑い声がする。この松崎という女編集者とその笑い声がが明里は嫌いだった。顔を顰めてその哄笑が終わるのを待つ。愛想笑いを重ねてやろうというつもりもなかった。
それを知ってか知らずか一頻り笑い終えると彼女は切り出す。
「じゃあ、ウチで今度新しいレーベルを作ることになってるんだけど、どうだろう。一般向けのレーベルだから、君の想いにも反しないんじゃないかな」
彼女の語ることから極力必要な情報だけを拾い上げるようにして、明里は思案した。ライトノベルではもう書きたくないというのは回ってくる前に告げていた言葉であり、回さなかったのは彼らの善意に他なるまいが、この誘いを断っては彼女の作家としての人生が終わってしまいかねない。
「少し考えてもいいですか」
「うん、まだ猶予はあるし、鳴海ちゃんは筆速いからね」
また高らかに笑い出した松崎に一層眉を顰めて彼女の笑い声が途切れるのを待ち、こんな風にしてたら眉の間に小の字が出来ちゃうかな、と不安になった。それがやっと終わったので、もう用件がないことを確認して電話を切る。
ため息をつく。彼女のうちに書くべきことはまだまだあるし、それを与えられるべき人がいるのも彼女にはよくわかった。物語は意味を持つ。作者が知らない間にでも、それは誰かに大切なことを伝えることが往々にしてある。彼女はそう信じていた。時折彼女宛に届くファンレターにも、「サボテンミラージュ」という益体もない話に救われた、などという妄言を吐く輩が含まれることがあった。作家としては本望に近いが、それの何がその男性の救済となりえたのかはその手紙を端から端まで覚えるほど読んでみても明らかにならなかった。
だが、それを書くのはこの話で本当にいいのだろうか。漫画やライトノベルにこそ明るいが一般書という話になると鳴かず飛ばずとなってしまう出版社の新レーベル、あまり期待できたものではない。届くべき人に物語が届かないということも充分ある。都会でなら揃うのだろうが、彼女の住む付近の町で新レーベルの本の跋扈するのは見たことがない。彼女の書いたサボテンミラージュとて、このあたりではネット通販か書店取り寄せくらいしか購入の手立てがないのだ。
悩ましげに机に突っ伏してその物語の構想を練る。王道の物語ではあるが、彼女の色にも充分染められている。考えれば考えるほど、登場人物たちの作り出す世界が垣間見えるように彼女には思えた。名作になる予感がひしひしと彼女の手の中で脈動を続けている。今すぐにでも書き出したい欲求が、留められないものとなって彼女に襲いかかる。原稿用紙でも、ワープロでも、なんなら携帯でもいい。今すぐに書き出したい、そんな欲求。だが、そこで書き出してしまっては頓挫するのが物語の難しいところだ。彼女にはまずきちんと物語の骨組みを作ってしまう必要があった。
瞑想するがごとく額を冷たいテーブルにあてて悩む。今すぐにでも駆け出してしまいそうな彼女の物語の担い手は一体どこにあるのだろう。
と、然程没入も出来ないうちにインターホンが鳴らされた。誰だろう、この忙しいときに。しかし人との接点の多い日だ。学校も休みなのだからこの日くらいゆっくりと休養を取っておきたいのに。
「はい」
明里がドアを開けると、そこに立っていたのは倖雄だった。あれ以来、連絡をとれていなかった彼が尋ねてきたのは、三月が何か言ってくれたのかもしれない。
振られた彼は、失意というより罪悪感に駆られたように明里には思えた。無益な話だ。誰でも恋はするだろうし、それを告白だってする。それを受け入れてもらえなかったからといって相手に遠慮することはないだろう。彼の繊細な精神がそれを許さないらしいことは彼女にもわからないではなかった。つくづく優しい男だ。それだけでは世界は渡っていけまいに、と彼女は哀れんだ。
「先輩、どうしたんですか」
「謝ろうと思って。ごめん。何か悪い気がして来れなかったから」
ああ、と明里は思った。また泣きそうな顔をする。もう少し自分に自信を持てば良い。口には出せないが、彼女は心中でだけ雄弁に倖雄と会話をしようとする。無論通じるわけもないが。
「いいんですよ。とりあえず、お茶でも飲みませんか。相談事も少しあるんですよ」
「お邪魔します」
靴を脱いで框を踏む。そう、それでいい、と頷いて、彼の分の紅茶を淹れた。今から書き出そうとする作品の主人公に酷似している、彼のために。
その作品をどこの媒介者に委ねるかの答えは、彼に預けてみよう。
三月との初詣を終えて家に帰ると、待っていたのは年賀状の選別だった。浅い付き合いの人間の数でいえば彼の親交は多岐に渡り、都合四、五十ははある。そのうちには当然のように日下部三月の名前と、遠野倖雄の名前があった。
三月のそれは女子らしくない。手紙にボールペン字の文面と迎春の文字、百円均一のスタンプを申し訳程度に押した程度のものだった。文面もさほど目に留めるほどのものでもない。けれど、彼女が自分のために書いてくれたことを思えば嬉しくない筈はなかった。
対して倖雄の年賀状は手描きのイラスト入りの丁寧な仕上げだった。
文面自体はさほど大したものでもないが、ふと「これからもともだちで」という単語が目を引いた。
胸が少し弓を曳いたようにきり、とするのが分かった。
作品名:like a LOVE song 作家名:能美三紀