like a LOVE song
倖雄はもう撒くのを諦めて、少し小高くなった丘の公園で迎え撃つことにした。流石に街中で取っ組みあうわけにはいかない。運良く近場にいたのは幸運といえる。あと三分とかからずにつけるだろう。それまで足と心臓がもつことを願って、彼は更に駆けた。
その道は、三月が指定したあの公園に続く山道だ。彼がそこに向かっているだろうことが何とはなしにわかった。迎え撃とうとしていること、そこまで体がもつかの心配をしていることまで伝わってきた。
相手にばれているのは間違いない。奇襲にはならないだろう。だから、タイミングだけが勝負。一番いいところで刀を返せなければ、落ちるのは倖雄だ。
もう公園の入り口が見える。あと少し。通り過ぎはしないだろうか、と不安になったが、いいや、しないとすぐに否定した。倖雄はあそこで迎え撃つ。間違いない。
直角に曲がって公園に駆け込む、テンポを落とす。
倖雄は九十度曲がって右折し、速度を緩め、体勢を低くして、男の足を狙い、速度を殺さないまま足を払った。
転倒すると、どんよりと曇った灰色の世界が見えた。もう少し寒ければ雪をふらせそうな雲だ、とどうでもいいことを考えた。こうしてのされるのはわかっていた。
倖雄の絶句が聞こえる。次の手、どうにかしてストーカーを倒そうと考えたのが白紙になってしまったのだろう。愛はもう自分の存在はばれているものとばかり思っていたが、どうやらこのときまで倖雄は気づかなかったらしい。
「愛くん」
空気のような顔で、空気のような目をして彼を見つめるのは、三人の輪を断った愛に違いなかった。
「どうして」
何も答えず、ただ虚ろな顔で倖雄を見つめながら立ち上がる愛に、倖雄は、渾身の力を以て右手の拳を繰り出した。後方に倒れて、睥睨するような目つきに変わった愛は、すぐに起き上がり、返事とでも言うように右手を拳にして、倖雄の頬を打擲した。
「何でお前がそんな顔してるんだよ」
もう一撃、愛の拳は倖雄を狙う。
「お前は笑ってなきゃいけないだろう」
絶叫とともに繰り出された愛の拳は、倖雄の左手に止められた。
「振られたんだよ、悪いの」
倖雄らしくない叫び声に乗せて、彼の拳はもう一度愛を揺さぶった。
「それに、君がいなくなってどれだけ寂しかったと思ってるんだ」
全力疾走と数度の拳で尽きようとしていた彼の余力のすべてで、愛の心そのものを狙う。
頬に捻じ込まれた一撃は、確かに愛の一番深いところまで響いた。彼はしりもちをついて詫びた。
「悪かった」
「僕の方こそ」
何拍かの間をおいて、いつぶりだろうか、二人で笑いあった。
「にしても振られたのか、格好悪いな」
「愛こそ、まるで囚人みたいな顔してる。そんなんじゃ日下部さんに振られても知らないよ」
くつくつと笑うと、頬の痛みなど吹き飛んでしまうような気がした。
町を見下ろそうと、柵へ近寄った愛に、倖雄は問いかける。
「訊いてもいい、愛くん」
振り返った愛は不思議そうな顔をするが、倖雄や三月にしてみればずっと謎だったことだ。
「何だよ」
「どうして僕のこと、避けてたの」
「ああ」
答えづらそうに長音を続ける愛に、倖雄は、
「なんならもう一回殴られてみる」
と言った。愛は笑って答えた。
「止めといてくれよ。お前、結構強いんだからさ」
「じゃあ教えてよ。いいでしょ」
「悪いがそれは無理だ。お前にも俺にいえない秘密くらいあるだろ」
倖雄は納得のいかないように唸って愛を見つめたが、愛は気にも留めずに体を翻して町を見下ろした。
三月にここに呼び出されて以来の、色のついた景色に思えた。今まで彼の周りの世界の色彩はモノクロになっていたのに。
それでもこうして倖雄と親交を取り戻した以上、スナイパーは生き返ることになるのを、愛はきちんと理解していた。
けれど、次は今回のようにはしない。どうにかして、誰も傷つけない狙撃手の殺し方を考えよう。
気の良い娘だ、と去っていく明里を見つめてそう思った。絶滅危惧種と言ってもいい。同性である彼女でさえ魅力を感じたほどだ。
大人しく淑やかでありながら明朗さは失くさず、それでいて目に光る輝きは野心からのものだ。先に進むだけの気概もあった。現在のライトノベル作家としてだけの名声では彼女の器は満ちないらしい。
それだけに、恋が出来ないというのもわかる。彼女は彼女であるだけで完璧、男性のフォローなどはむしろ邪魔になってしまうのだ。それでも倖雄を気にかけて三月にフォローしてくれるように頼むのも、彼女には出来そうもない気の配り方だ。ただ、確かにそうしたほうがいいのだが、どうやって連絡しよう。メールアドレスは電話帳にあるけれど、もう連絡が途絶えて半年は経つ。彼女から連絡して、倖雄は厭わないだろうか。
新規メール作成で決定ボタンを押し、送信先に遠野倖雄のメールアドレスを据える。あとは文面だが、どうするべきだろう。
迷った指がとりあえず「久しぶり」からはじめよう、と六番キーを二回押したとき、突如として画面が切り替わって一通のメールが舞い込んだ。どうやら愛かららしい。彼からの着信の時だけ鳴るトルコ行進曲が三音だけ流れた。
「倖雄と仲直りしたよ。心配かけて悪かった」
装飾のないそのメールが、それが冗談ではないことを伝えていた。
彼女は不安から安心へレバーを切り替えて破顔した。そして終了キーを押すと携帯を閉じた。
彼が倖雄についてくれるなら、愛に彼がついてくれるなら、もう何も不安はないだろう。
いつか、倖雄と正対する場面があったとき、少しばかり叱ってやれば充分だ。
食堂で愛の模倣をしてうどんを啜っていると、対面からかけられる声があった。
「ね、ここ空いてる」
「うん、空いてるよ」
倖雄の許可を聞くと、彼女は軽い音と共に座った。三月だった。昼食は食べ終えたのか、トレイを持っている様子はない。
「愛と仲直りしたって聞いたけど、その傷、そのときの」
「うん。柄にもなく殴りあいなんかしちゃった」
照れるように笑う。お互い殴れば万事解決、ドラマで見かけることはあれ実在は疑われる、男子の謎めいた生態の一つである。もしかすると何かの隠喩表現なのかもしれない。そういえば愛は格闘ゲームが強いと言っていたが、対戦ゲームで仲直りでもしたのだろうか。三月の妄想は、倖雄にも愛にも届かずに儚く消えた。
「それでも愛から嬉々としてメール来たよ。三日前の事でしょ。確か三時ごろ」
「へえ、そんなに嬉しかったのかな。僕は嬉しかったけど、こういう関係にしたのは愛くんだよね」
資料運びを手伝っていた所為で昼食は遅れた。もうほとんど食堂に影はないが、丼にはまだ最初の三分の二ほどの麺が残っている。それにしても味がない。早く食べないと、彼のもっとも愛する図書館で過ごす時間がどんどんと削られていく。
「そうだよね。私にはわからないな。男の子なら察しとかはつくんじゃないの」
倖雄は静かに笑った。
「つくわけないよ。僕には僕のこともわかんないのに」
「なんで明里ちゃんを好きになったか、とか、君的には超のつくミステリーなわけだ」
笑顔が凍りついて、間があって、割り箸が落ちて、あ、爆発寸前、と思った瞬間、
「なんで知ってるのさ」
作品名:like a LOVE song 作家名:能美三紀