小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

like a LOVE song

INDEX|12ページ/28ページ|

次のページ前のページ
 

 それは実際その病気の患者に出会ったことのない三月にも、うつという病名を想起させるものだった。
 去年の今時分には弾けるような笑顔をしていた彼が、今ではまるで長年獄中生活をしている犯罪者のような頬のこけた悲しげな笑みしか作れなくなっていた。時折口癖のように自殺願望を述べたし、あまり聞かなかった泣き言をいう機会も増えた。もともとあまり活動的とは言えなかったけれど更に輪をかけて動かなくなったし、彼の方から彼女を求める回数が耐性のできてしまった麻薬めいて増えていった。キスだけだった関係は、いつか高校生として模範的でないものにまで発展していた。
 それでも彼が彼女と二人でいない時は今まで通りを装って弱い面を見せまいとするのが彼女には自分を頼ってくれる嬉しさ以上に悲しかった。
 彼の座っていた場所、その座布団を仕舞う。ふと彼のにおいがして、彼女は動きを止めてしまった。落ち込んでいく彼に引っ張られて、彼女まで落ち込もうとしているのが、自身でもわかった。かといって自然に接さないと、彼が彼女を拠り所に出来なくなるかもしれない。彼女が出来るだけ踏ん張って、彼を引き上げようと、せめてそれ以上落とすまいとする以外に彼女に彼を助ける方法はなかった。
 無念さをかみ締めて、彼女は読みかけの本を取り出して栞を挟んだ箇所を開いた。梶井基次郎全集、彼から手渡された本だった。基本的に本を読まない彼がこうした本を読むのは更に珍しい。彼の本棚にあるのは九割が漫画だったし、残りの一割も熱心な読書家にはあまり好かれそうでないものばかりだったが、心変わりがあったのだろうか。
 彼女はそう自問して、その愚かさを自分で嘲った。心変わりなどあったに決まっている。彼はあれほどまでに傷ついているのだ。
 彼が彼女に依存しているのは言うまでもなかったが、彼女も彼に、的確に言えば彼に依存されることに依存していた。
 明日また学校で会うことになる。それまでの時間、この焦れつく気持ちをどう静めたら良いというのだろう、と本棚しかない部屋で考えた。透明感のある梶井の文章が、潤滑油めいてその孤独感を加速させていった。

 十二月、冬は漸く本腰をあげて世界を冷やしにかかる。ため息を漏らせば、白い吐息が風に棚引く。もうそろそろ上着を出さないと外出もままならなくなろう。
 倖雄は町を歩いていた。冷たい空気が彼の皮膚に肉薄するのを感じながら歩けば、傷ついた彼の心に刺さるものがある。耽美なる自傷に酔う、その姿は彼を知るものには違和感を感じずにはいられないものだろう。
 幽鬼めいた歩調で、目的もなく、あちらへ行ってはこちらへ戻り、そっちへ逃げてはこっちへ帰る。浮浪者のような歩調で歩いていく倖雄。誰の目にも哀れなその姿は、それを追っていたストーカーの目にも痛々しく焼きついた。
 張り込みなどしていたわけでもない。気分がどうしようもなく滅入ったので散歩に出てみれば、彼の姿を認めてしまった。その姿は平常の彼から考えられないものでなければ、その場を身を隠してやり過ごすだけで済んだかもしれない。だが倖雄は失意に沈み、それを追う彼の方もああさせてしまったのは自分かもしれない、と自分を傷つけていた。もしあのまま死にになどいくつもりであれば、と最悪の想像さえ鎌首をもたげ、彼は倖雄を尾行することに決めた。音楽プレイヤーから流れてくる曲がいつの間にか止まっているのにも気づかず、愛は倖雄のあとをつけた。
 三月はその彼の自責を、倖雄と手を離したことを悔やんでいる、と言ったが、彼の痛みはそんなものではない。言ってみれば、倖雄と繋いだ手を肩からすべて切り落としたようなものだ。
 彼にとって倖雄は唯一無二の存在と言って過不足なかった。ともすれば、恋仲たる三月よりもその存在は大きかったと言えよう。それと繋がるラインを断つのに、一体どれだけの痛みがあったことだろうか。当時の彼の手首に包帯が巻かれていたのに気づいた人間は幾人いただろうか。その痛みが今も尾を引いたままだと知る者がいったいどこにいるだろうか。そしてその痛みがある限り、彼はその切り落とした腕と決別は出来ていない。完全に倖雄のことを忘れられはしない。少し残された彼との関係の残滓はいずれ菌類のように繁殖する。だからこうして幽鬼めいた歩調で彷徨う倖雄の後を追いかけている。
 海を通り、田を眺め、坂を上がり。そうして歩いて漸くこの土地が自然に恵まれているのを知るのは如何なことだろう。そして、三つ目の神社を通り過ぎる頃、彼はその背後からついてくる影に気づいた。ストーカーだろうか。
 刹那、倖雄の気配が揺らめいたような気がして彼は心臓を掴まれるような思いがした。長らく会っていなかった彼が、愛と会ったとき、どういう反応を取るか、彼には恐ろしかった。
 彼が立ち止まると、その影も立ち止まった。おかしい。声には出さなかったが彼はそう思った。たとえストーカーとして、彼をつける意図というものが想像もつかない。ストーカーは背丈から男のようだ。婦女子であれば猥褻な行動に出ようというのも百歩譲ればわからないではないが、彼は歴とした男性である。とすれば強盗か、通り魔か。あるいは同性愛者だろうか。
 どちらにせよ、相手が何かをするまで倖雄には取れうる行動があまりなかった。ただ歩くだけだ。家になど帰っては住所を知らせてしまうことにもなりかねない。そうなればどれだけ面倒なことになるか、倖雄には想像もつかないくらいだった。
 少し早足になった彼のペースに、愛もついていく。もう見つかっているらしいことはわかっている。個人特定はまだかもしれないが、いずればれてしまおうことはわかりきっていた。彼はその道のプロではない。けれど足は止まらず彼を追いかける。気持ちの置き場所を求めて歩き続ける。
 車のミラー越しにこちらを見ようとしているらしく、視線の浮遊が目立つようになって、彼はフードを深く被りこんだ。出来るなら結論は先延ばしにしたい。一歩でも遠くへ行きたい。足はそう告げる。諦めたのか見抜いたのか、それ以降少しして彼はそれをするのをやめた。もし通り魔目的の尾行であればその場で凶行に出られかねないほどその挙動が不自然だったのを自覚したのかもしれなかった。
 もう周りの景色を気にする余裕はなかった。匂いもシャットアウトして、相手が歩いてくる音を聞く耳、相手の気配を感じる肌、何かの隙にその姿を捉える目だけをフル稼働させる。顔を見られることを恐れてかフードを被った男はまだついてきている。振り向かずにそれを感知できた。
 凡そ発揮できるだろう全力で注意を振りまきながら歩くのは、殺気の開放に近い。何人かの人が彼を避けて歩いた。別にそれでも構わない。今大切にするべきなのは世間体ではなく、身の安全だ。
 そして倖雄は走り出した。愛も一拍遅れて走り出す。いつしか小走りが疾駆になり、疾駆は疾走になった。
 もはやストーキングという目的は薄れて、一種の逃走劇めいてきているのを、両者とも感じていた。子どものころいつまでも興じた鬼ごっこのような楽しさとスリル、遊びに夢中になれたその頃を思い出しながら、二人とも真剣に逃げ、追った。
作品名:like a LOVE song 作家名:能美三紀