like a LOVE song
「あれ、三月。もういいの」
「うん、なんか食欲なくて。ちょっと散歩してくる」
大丈夫なの、と声をかけるクラスメイトに、大丈夫だと告げると三月はいそいそと片づけを済ませ、教室の外へ出た。
七月、夏の気配は冷房の効いた教室を出たとたんに押し寄せてくる。この暑さが教室の中まで響いてきては勉強どころではないだろう。この田舎の高校に冷暖房という設備が備えられているのに感動を覚えながら、三月はぼんやりと廊下を歩いた。目的もないのに彷徨するのは、彼女の昔からの癖だった。
「あれ、日下部さん」
「え、遠野くん」
その足が、知らず図書館に向いていたことを、彼女は倖雄の存在から悟った。知らない場所には行かないものの、気がつけば突拍子のない場所を目指していることがあるのも彼女の散歩の特徴だ。考え事を始めると他のことが疎かになる彼女の性質から来ているのだろう。
「えっと、今日も図書室」
何も問わないのも不自然だったので、そう問う。倖雄の方も同じ気まずさを懐いているのか、控えめに頷いた。というよりも、彼としては急いで図書室を目指したかったのだが。
不要な沈黙が流れた。倖雄は急いていたし、三月は煩わしく思っていた。どちらも望んではいないのに、吹っ切って歩き出せない、そんな沈黙だ。
「えっと」
と三月が何かを口にしようとしたとき、「何してんだ、三月」と、愛の怒号めいた声が飛んできた。彼ら二人が廊下の彼方から迫ってくる彼の姿を認めるのに時間はそうはかからなかった。
「愛」
三月は面食らったようにそう漏らした。倖雄も何が起こったのかわからないような顔をしていた。
「いくぞ」
彼女に拒絶の暇も与えず、愛は彼女の腕を掴むと食堂へ向かう廊下を歩き出した。倖雄と三月は一度だけ目配せをしたが、その意味は二人ともよくわかっていなかった。
その事件が皮切りとなって、倖雄と三月のまだ少し微熱の残っていた関係にはいきなり冷水がかけられた。
二人はすれ違っても会釈ほどしか交わさなくなった。そうなってから、その極寒、極小の関係の消失までそう時間はかからなかった。
夏休みが明けると、二人はお互いを遠ざけるようになっていた。愛のそれのように、また、磁石の斥力のように。
聖人君子と呼ばれて久しい彼とて、年頃の男子高校生なのに違いはない。要らないものだとわかっていながらも、逢瀬を重ねるのには否応なしに興奮もしてしまう。彼女とのライトノベルから始まった関係は、いつしか深くなり、熱を持ち始めていた。倖雄本人にはそれにまだ気づく様子はなかったが。
夏休みのその日、二人は図書館に向かうことになった。彼女は幾度も今の自分の文章に決して満足はないことを倖雄に語り、問題点はどこか、と二人で必死に研究と研鑽を重ねあった。明里はまだライトノベルレーベル以外からの出版に前歴がなかったが、いずれはそれも視野に入れていることを熱く語った。それを聞くたび倖雄は目の前の彼女が輝いているように思った。彼には将来の夢がまだない。もう進路を一本に決めなければならない時期だが、幾つかの選び取れない蜘蛛の糸が彼の前に垂らされ、どれもが彼を低い鼓動で呼んでいた。彼はつまるところ、打ち込むものを持っていなかった。少なくとも今このときは。その余暇を、彼は明里の夢への助力をすることで果たすことにした。夢を追う人の隣にいれば、彼の夢も見つかるような気がした。
だがそのために使われる資料子として、彼らの高校の図書館では力不足だった。役に立つ図書がないわけではないにしろ、半分ほどは科目の資料集や進路についての書籍だったので、おおよそ創作の表現の模索に利用できそうな本は限られていた。そのため、夏休みのこの時期、隣町の大きな図書館に通い、彼女の筆に磨きをかけることになったのだった。彼女の下宿先もその町にあるというので、集合場所は彼女の自宅になっていた。
彼女は何の気なしにしたことだったが、彼にしてみれば一大イベントだ。女子一人暮らしの部屋を訪ねた経験など彼にはない。何が行われるわけでもないし、何があるわけでもないのだが、無用な感情が先を走って彼の体を硬くさせていた。
彼は右手を三度握りなおして力を込め、その拳を開くとインターホンを押した。
「はい」
という明里の声がして、数秒の後その戸は開かれた。中は冷房で肌寒くなっているらしく、彼の足元にひんやりとした空気が流れ出してきた。
「先輩。ようこそ」
彼を認めると、彼女はそう言いながら微笑んだ。
「おはよう。暑いね」
「暑いですねえ。じゃあ、中入りますか」
倖雄が頷くと、彼女はどうぞどうぞと言いながら部屋へ引っ込んでいった。彼は靴を脱ぐと、それについて中に入った。
台所と居間だけがまず目に入った。閉められた扉が二枚あったが、寝室だろうか。もう片方は水場かもしれない。倖雄はそんなことを思いながら、居間に座布団を敷く明里に少し気を払いながら、彼女の対面に座った。
「何もない部屋ですけど」
「まあ、居間なんてそんなものかもね」
そういえばテレビもパソコンもない。ちょっとした棚があるにはあるが、さほど物が入りそうには思えなかった。ほぼ机しかないと言っていい。
「けど、もうちょっと本はあるかと思ってたな」
「あんまり手元には置いておかないんです。昔からここの図書館に通ってましたし」
進学先をあそこにしたのも、下宿先をここにしたのもあの図書館が好きだったからなんですよ、と笑いながら彼女は言った。倖雄はそうなんだ、と相槌を打って、明里が喋りだすのを待った。いつもの構図だった。彼から話題を提供することはあまりなく、盛り上がるのは大抵が明里からの振られた話題だった。彼女はどちらかといえば無口といえる彼と会話するのがとても上手だった。
そうして沈黙の時間を二人で過ごしていると、明里は急に台所へ向かって冷蔵庫から麦茶を取り出し、倖雄に差し出した。倖雄は軽い感謝を告げると、そのガラスのコップに口をつけた。
「ちょっと待ってもらえますか、起きてすぐだから、まだ目が冴えてなくて」
「休みだから、って夜更かしはよくないよ」
明里はくすくす笑った。
「夜更かししてたわけではないですよ。休日ってつい朝まで寝ちゃいませんか」
「僕はいつも同じ時間に寝ちゃうし同じ時間に起きちゃうなあ」
あごに手を当てて想起する倖雄に、明里は感心したように声を出した。
「便利ですねえ、目覚まし時計要らないんだ」
「あっても起きられないからね。どうやっても起きるのは六時だし寝るのは十時になっちゃう」
「ああ、それは不便、なのかな」
初日の出見れないですもんね、と真顔でいう明里に、倖雄はつい吹き出した。
「え、何か変なこといいましたか、私」
「いや、初日の出って。何というか、非日常的でしょ。もうちょっと日常的にいろいろ不便なことあると思うよ」
明里はそれを聞くと真剣に悩み始めた。
「もしかして勉強に使える時間がないとかですか」
倖雄は破顔したまま、それを否定した。
「ほら、見たい番組が見れないとか、旅行へ行こうにも朝早いと起きられないし」
「ああ、なるほど。すいません。私あまりテレビは見ないですし、旅行もあまりいきませんから」
作品名:like a LOVE song 作家名:能美三紀