式部の噂
父さん に
「っく…ひっくひっく…」
泣きすぎてもう目が開かない。
きっと今オバケみたいな顔になっているだろう。
…待ち合わせ場所には行かなかった。
いや、行けなかった。
…どこをどう間違えたのか1時間歩いたけど父が待つはずの小さな家には着かなかったのだ。
そのあとここがどこかもわからず、携帯も持っていないから連絡もできず、結局待ち合わせ時間から3時間もたってしまった。
(きっと…)
きっと、なんて時間にルーズなやつなんだって思われてる。
会ったこともない人に幻滅されるなんて…。
(母さんごめんなさい)
また、「本当にあの人の子供か」なんて言われたらどうしよう…。
すっかり暗くなった街並みからは海の匂いがした。
時たま通る車のライトが白く過ぎて行く。
また、頬を涙がつたる。
(あ、またライト…)
白いライトが通りの向こうからゆっくりと近付いてくる。
…そして目の前で止まった。
「ごめんごめん式部!!…法さんが「多分迷子よ。あなたに似て方向音痴だから」とか言ってたからずっと探してたんだよ。…でもなんでか途中から僕が迷子になっちゃって…。」
白いワーゲンから出てきたその男は、想像以上に若かった。
「…と…」
心臓がまたどこんどこんとなり出す。
(この人が…)
「ん?」
柔らかな茶色い毛なみに細くて高い背。
目はくりっとしていて人なつこそうだ。
シックな色のティーシャツにこれまた渋いジーンズを皮のベルトで穿いている。
…かっこいい。
確かに、かっこいいけど…。
「本当に…父さん?」
若い。
若すぎる。
母さんは今41歳。
私は高校2年生。
しかし前で微笑む男の人は、見るからに30代前半くらいだった。
(母さんて…)
渋い『大人の』男が好みじゃなかったっけ?
その人は私の怪訝な顔にも気付かず(もしくは気にせず)にこにこと笑ってうなづいた。
(あ)
オデコが汗で濡れている。
(…心配してくれてたのかな…)
「ほら、おいで。お腹減ったろ?」
その人は車の助手席を開けて手招きした。
私は黙ってそれに従うことにした。
バタンッとドアが閉まり、二人きりの世界が広がる。
(うぅ…)
緊張で涙が…。
「式部」
ふいに名前を呼ばれただけで大袈裟にびくりとしてしまった。
「会いにきてくれてありがとう。」
(あぁ…)
なんだか妙にこそばゆい感じが体全体を包んだ。
それでいて、ぴょこぴょこそこいらを駆け回りたい気持ち。
「と、父さん…」
「はい、何ですか?」
初めてめんと向かって(といっても道路を見て運転しているけれど。)父さんと呼ばれたその人も、心なしか緊張しているようだった。
「父さん…あのね、まずは一応自己紹介から始めようと思うの。」
なんだかおかしな父娘の会話だ。
…父さんは少し寂しげに、意外な言葉を発した。
「そうだね。まだ式部の中では初対面に近いよなぁ…。」
(え…)
もしかして、父さんは私に会ったことがあるの?
ものすごくびっくりしたせいか、そのことは聞けなかった。
父さんは静かに自己紹介をしはじめる。
窓の外では景色がひゅるひゅると通り過ぎて行った。
「僕の名前は清水岬。子供の頃はよく女の子にまちがえられた。歳は36歳。」
(36…。)
20歳の時の子供か。もっと若く見えたけど…。
父さんは話を続ける。
「仕事は建築デザイン関係かな。僕の家も僕がデザインしたんだよ、…あれ、道あってるかな…。」
父さんはきょろきょろと周りを見渡す。
白くて大きい骨っぽい手でハンドルを握っていて、男の人って感じだ。
「…っかしいなぁ…。ちょっと待ってて。」
父さんはポケットから黒い携帯を取り出した。
キーホルダーはなにもつけていない。
(母さん…)
話の途中で携帯を使うやつは嫌いなんじゃなかったの?
「…あ、もしもし猛?なんか道迷ったみたい。ごめんごめん…え?…あーえっとなんか白い家があるよ。窓最高。…わかんない?だからー…あ、猛!!」
突然父さんは外に向かって手をふり出した。
暗くてよく見えないけど、電話を持った男のシルエットが近付いてくる。
「猛」は大学生くらいの男だった。
背が高くて細いのは父さんと同じだけど、「猛」は黒髪で眼鏡をかけている。
黒のシャツに茶色の半ズボンで、携帯とビニール袋を持ってこちらを睨んでいた。
「岬さん…」
怖い顔のままざかざかと近付いてきた。
その姿は、顔は全然似てないのに母さんに似ていた。
父さんはやっぱり気にせずにこにこ手をふり続ける。
「なんでここにいるんだー?もしかしてエスパー?」
「猛」は忌々しそうに淡々と怒ってきた。
「なにが「どうしているの」ですか?岬さんが今日娘が来るから夜更かしするぞ!お菓子買ってこいとか言い出したんですよね?人のことなめてんですか。奥さんからも「まだ帰ってこないの?馬鹿ね」って電話がきてたんですけどもしかして馬鹿ですか?馬鹿ですね。」
さらりと酷いことを言っている。
(私だったら多分泣いちゃう…)
ちらっと父を見ると、まだにこにこ微笑んでいた。
「ごめん、心配かけたね」
「猛」ははぁ?と眉を上げた。
「オデコ汗かいてる。」
猛さんは一瞬顔を赤くして、「してませんかいてません。」と言いながら腕で汗を拭いていた。
「あ、猛も乗ってく?」
父さんは後部座席を指差す。
猛さんは「当たり前ですよ。」とお菓子の入った袋を見せて乗り込んだ。
そういえば私は今初対面の男二人と密室にいるのだった。
「じゃあ猛道案内お願いね。さぁ式部今度こそ家に向かおう。」
父さんは元気にドォルルルとエンジンを発進させた。
…どうやら私と猛さんが全くの他人ということを忘れているらしい。
呑気に運転する父さんをちらっと見て、後ろの方もさりげに見たら猛さんと目があってしまった。
どうやら同じことを考えていたらしく、「参ったね」といった顔をした。
その顔はさっきとうって変わって全然怖くなかったので、何だか拍子抜けする。
「岬さん。」
猛さんが運転席をつんつんとつつく。
「なに?曲がる? 」
「いえ、次の信号右です。…ていうか自己紹介していいですか。」
そのとたん父さんが「あっ」と叫んだのでまたびくりとしてしまった。
それをみた猛さんが「君驚きすぎ」と優しく笑ったのでなんでか妙に恥ずかしかった。
「どうしたんですか?」
「あ〜。俺自己紹介途中だったよ。」
「岬さんはもういいですよ。俺ら初対面なんですけど。」
(父さんともです…。)
車が信号を右へ曲がった。
急に灯りが減りだした。
左手になにかもやもやとしたものが見える。