式部の噂
父さんと母さん
爽やかな風が吹いていた。
季節は春だった。
町には人が溢れていた。
僕は匂いをかいでいた。
町中の、いたるところの香りを。
それは珈琲の匂いだとか服の匂いだとか香水の匂いだとかそういった類の『ごく全う』な香りじゃない。
僕は『町』の匂いをかいでいたんだ。
きちんと言えば、建物の。…そしてその空気の。
町は歩行者天国に近い状態だった。僕はその空気をフラフラとひたすらにかいでいた。
僕を気にする人は誰一人としていなかった。
僕は大学生だった。
産まれてからずっと5年ごとに日本と世界中を行き来して生きてきた、どこか風変わりな青年だった。
それは自分でも知っていたけど、気にしてはいなかった。
僕の師匠はとても風変わりな人だったからね、僕はむしろ風変わりを世界一愛してたぐらいだ。
そう、僕の両親はいなかった。
母はとっくの昔に死に、父さんは父さんじゃなかった。
つまりは僕の師匠だったんだ。
もちろん社会的に見ると師匠は僕の父だった。
でも師匠は決して僕の父ではなかった。
僕らは最高に仲のいい師弟だったけど、互いに親子らしい会話をしたことは一度もないんだ。
だからこそ僕は師匠を心から愛していた。
『父』だからじゃなくって、彼が彼だったからだ。
…話が少しずれちゃったね。そう、そう。そのへんてこな師匠をもつへんてこな大学生の僕はまた5年ぶりの日本に来ていた。
その前の5年間僕はイギリスにいたんだけど、僕は日本以外の国で5年間ずっとひとところにいたことがなくってね。
すっかり疲れていた。
大学をイギリスに決めてしまっていたから動くに動けなかったんだ。
だから僕は5年たつともう嫌になってしまって大学を途中で辞めて日本に帰って来ていた。
何もイギリスが嫌いだったんじゃなくて、動かずにはいられない性格だったんだ。若かったんだね。変な焦りもあった。
…それですっかり疲れきった僕は大好きな町の香りをフラフラとかいでいたんだ。
もっと素敵なものに出会うなんて知りもしないで。