式部の噂
星が綺麗な夜だった。
私は今あの暖かい家を抜け出して、夜の海に来ている。
遠くの方でぼんやりと浮かぶ光の点、漁船だろうか…。
私は、小さく息を吐く。
なんだかどうしようもなく母が恋しいのだ。…不思議なことに。
塩辛くてぬるい風、私は思わず笑ってしまった。
何かが不安で、でも幸せで。
初めての海はすっかり私を魅了していた。
この緩やかさ、それでいてひっそりと牙を隠した荒々しさ。…まるでこの家みたい。
いや、それよりも…
「岬さん、みたいだよね。…海って。」
「…えっ」
「あっごめん…驚かせた?」
私はまたも跳びあがる。
只今の時刻午前2時。
こっそり家を出たから、まさか猛さんが起きているとは思わなかった。
「わっ私のほうこそっすっすみません、起こしちゃいましたか?!」
慌てる私に暗がりの猛さんはふわりと笑った。
途端に、心臓が急にどたんばたんと動き出した。
あぁ、私はとことん男の人に慣れてないのだ。
「…いや、ちょっと眠れなくて。…式部ちゃんは?」
「…あ、…はい。私も、少し…。」
私は空に浮かぶ星を見る。
猛さんは少し母さんに似ている。見た目や性格は全然違うけれど、その身にまとう空気が。
…だから私はまた、思い出す。
まだ母さんに会ってはいけない。
出ないと、私の決心が鈍ってしまう。
でも、心細くて堪らないのだ。
あの人の庇護なしには、私はきっと生きていけない。
放って置かれている様で、でもちゃんと私の考えを聞いてくれて、怒鳴ったりもせずにいつも快活に笑うあの人に。
…私は、なれない。
そして理解も出来ないのだ。
だから私はやって来た。
彼女から離れ、彼女を知るために。
…黙りこんだ私に猛さんの手が延びてきた。
私は思わず身構える。
―…猛さんは綺麗だ。
…猛さんの手は私を通過してその隣に落ちていた貝殻を拾った。
昼間父さんが拾っていたのと同じ種類だけど、少し小さい。
猛さんはしゃがんだ膝の上で貝をもったまま頬杖をつく。
パジャマ代わりのグレーのパーカーを着ている。
柔らかな黒い髪。
「…猛さん…は」
ぽろりと、声が出てしまった。
猛さんは黙って私を向く。
どうしよう?…聞いてしまおうか。
いや、でも図々しい気がする。
なにより嫌われたくない。
…でも…
あぁ、こんなとききっと母さんだったなら。
「…式部ちゃん?」
猛さんの困った声で、ハッと自分の涙に気付く。
また泣いてしまった。
「あ…ごめんなさいっ何でもなくて…ちょっと自分の情けなさに涙が…」
猛さんの手が延びてきた。
今度は私も身構えない。
きっとまた貝かなにか…
「へ」
猛さんは私の頬をぐいぐいと両方の掌で擦った。
そして突然手を止め、ひゅんっと素早く立ち上がると走って家へ帰って行った。
男の人が苦手なはずの私はその場に倒れた。