式部の噂
「…父さん」
私はこっそりと囁くみたいに呟いた。
ぐいぐいと涙のついた顔をこすっていたから、多分ほっぺたは赤くなってる。
そんなことしていたら中学生の時に読んだ源氏物語の、雀を失くした若紫のことを思い出してしまった。
中学生の頃の私は今以上に泣き虫で、人見知りで、仲のいい友達などといったら本当に数えるほどしかいなかった。
だから、まだ習ってもいない古典文学を読むほどまでに図書室に入り浸っていた。
もちろん原文ではまだ読めなかったけれど、古くさい言い回しの現代語訳はなかなか気に入っていた。
特に、幼少期の紫の上はあまりにも子供っぽく無邪気で、意外に思ったことを覚えている。
私は全然彼女の様に美しくはないけれど、でも多分同じくらいに子供っぽい。それはもうかなりのよい勝負で。
そんな取り留めない考えごとに遅れて、父さんは「ん?」と爽やかに返事をした。
私は少しだけ息を吸い、父さんをゆっくりと見つめた。
風が柔らかい。
「…本当に、あの人を殴ったんですか?」
…そう、私にはどうしても父さんが女の人に手をあげたようには思えなかった。
なんというか、父さんはそういうタイプの人間ではない気がする。
万が一どんなに怒ったとしても、きっと手を出すことはない。
父さんが手を出すとしたら、どんな時だろう?
想像もつかなかった。
父さんは私の顔を見て一瞬目を丸くし、あははっと笑った。
そして、
「あ、バレた?」
と言った。
まるで悪戯がばれた子供みたいな顔だ。
「えっ本当なんですか?」
猛さんも目を丸くする。
突然父さんはおもむろにしゃがみこみ、小さな貝殻を拾った。
柔らかな桜色をしている。
波がゆるやかに砂を濡らしていた。
時折、遠くから子供のはしゃぐ声が聞こえる。
父さんは貝をパンツのポケットにいれ、髪を軽くかきあげた。
「すんどめだよ。でも何故かあのこ自らとんでっちゃった。僕のグーからすごい風圧でもでてたのかなぁ?…はっ!もしや『気』?!」
突然父さんははしゃぎだしてしまった。
わーすげーついに気を出せる域まで!仙人になれるやもしれんっなどとしゃがんだまま跳び跳ねている。
私はそれは多分彼女の自己暗示じゃないのかなぁと思ったけど黙っておいた。
多分私が彼女でも後ろにとんでいっただろう。
そのくらい父さんのすんどめはすんどめに見えなかった。
猛さんはいまいち納得できない顔で頭をかいた。
「んー?ようするに岬さんは殴らなかったんですよね?思わせぶりな…。ていうかすごいね、式部ちゃん。よくわかったね。」
猛さんが自然に私の方を向く。
私はちょっと視線をはずして答えた。
「あ、見えたわけじゃなくて…なんとなく、…」
猛さんはふーんと眉毛をあげる。
私は思わず唇を噛み、下を向いた。
風で髪が額にまとわりつく。
父さんはぱんぱんっと砂を払い、立ち上がった。
「愛だね!式部」
僕への!
…と、父さんは笑う。
私も困った顔でついつい微笑み返してしまう。
愛、なのだろうか。
多分そうなのだろう。
私はきっともう、父さんを愛している。
父さんだと認めている。
母さんを母さんだと認めているのと、同じくらいに。
…そのあと、猛さんが「お腹減りましたね」と言ったのを期に、私たちはそのままお昼を食べに行くことになった。
行き先は小さな小さな洋食屋さんだった。
父さんはコロッケを、猛さんは鳥の柚焼きを、私はオムライスを頼んだ。
洋食屋さんのおばさんは元気で快活な人で、私は気押しされてしまいびくびくしていたけれど、父さんはここでもまたにこにこしていた。
父さんは誰にでもとても好かれているようだった。
だから、私は余計に猛さんのことが気になってしまった。
父さんを怒らせるほどすごいこと、なんて…
本当にあるかしら?