虹と蜜柑と疫病神
【四】
物心ついた頃から、とよの世界には色々なものが溢れていた。母の腕、空や、大地。雨に風。自分を覗き込む家族の顔、そして――悪い“モノ”。
皆には見えないらしいそれが皆を襲うことが、とよには恐ろしくて仕方がなかった。
「兄、さま……順兄さま……っ!!」
獣道を走っていたせいか、足首がひどく痛い。いきなり頬を突き出た枝が叩いたが、それに構う余裕もなくとよは逃げていた。耳障りな葉の擦れる音が直接心臓に響いてくる気がして、細かく震える腕と今にも笑いだしそうな膝にぐっと力をこめる。
いつの間にかできた肉刺はとうに破れて血がにじみ、ひりひりして地面を踏むのが辛い。でも足を止める方が怖い。追いかけてくる真っ黒な気配はすぐそこまで迫っていて、今にもとよを頭から飲み込んでしまいそうだった。
「よ、兄さっ……っ助けっ……っ!」
切れ切れになった息で、懸命に兄の名前を呼ぶ。妙なものが見えるせいでとよはよく近所の友達に苛められていたし、正直に話せば誰もにおかしな顔をされたけれど、末の兄だけはちょっと首を傾げただけで“そうなのか”とあっさり納得してくれた。それが嬉しくて、とよは特にその一番末の兄によく懐いていたのだ。
その兄を呼ぶのだが、兄が追いかけてくる気配はない――いや、あるのだが、それはとよの背中に迫る影の向こう側にあって、それはとても遠かった。きっとこの影が何かしたのだろう。
涙がにじむ。視界が悪くなったせいで盛り上がった木の根につまずいて、とよはひっくり返った。
頭を強く打ち付けたせいで結った髪がボサボサになり、視界が悪くなって、首に貼りついたそれがざわざわと気持ち悪い。汗に濡れた髪に紛れて、黒い影が自分の肌を撫でる。後ろから頬を這い、喉に触れ、首に巻きついた。
苦しい。怖い。息が出来ない。足が動かない。走れない。逃げられない――
いきなり、その場の空気全部がはじけるような衝撃があたりを襲った。
急に肺いっぱいに息が入り込んできて、体がびっくりして咳き込む。全身で呼吸をするせいで涙がにじんだ。
「……呆れた子だね。いくら友達が襲われそうだったからって、こんなの相手に喧嘩を売るなんて」
背中から射した影に、やっということを利くようになった体を振り向かせる。
「悪運の強い子だ」
目の前に立った男は右手から血を滴らせ、声音そのままの呆れた表情でとよを見下ろしていた。
「……え……っ?」
「死んでいたよ、普通なら。自分の命が大事なら、気付かない振りをすることだね」
男のてのひらはうすぼんやりと光っていて、恐怖に硬直したとよの目にはそれが妙に眩しかった。
自分が何を見ているのか分からない。しゃがんだ男の皺だらけの顔が目の前に来たことも、呆けたままのとよに男が溜息をついたことも、とよは気付いていなかった。
頬にこびりついた泥をぬぐわれてようやく、とよは我に返る。
「怖かった?」
解けた緊張に涙が浮かぶ。今更のようにガチガチ鳴りだした奥歯を噛み締めて、とよは唾を飲み込んだ。
どうやら自分を助けてくれたらしいこの男――しかしこれがこちらの味方だという証拠はなかった。現にこの男からは普通でない気配しか感じられないのだ。
「……そんなに警戒しなくても、私は君を襲ったりしない。私の力はそういう風には使えないんだ」
目の前の顔が、少し困ったような笑みを浮かべる。
不意に男は立ち上がると、とよが逃げてきた方に目をやった。耳を澄ませば軽く忙しない足音が聞こえてくる。兄がとよを追ってきたのだ。
「優しいお兄さんだね……彼を巻き込みたくなければ、もうこちらの世界には関わらないことだ」
血が滴っていたはずの男の手には、皺が刻まれているだけで、傷らしいものは何も見えなかった。いつの間に、一体何が起こったのだろう。
「私の“コレ”は特別なんだ。君にはできないよ、悔しいかもしれないけど」
男が傷の消えた右手を軽く振ってみせる。
「……兄さんが、好き?」
そして静かに響く、目の前の男の優しい声音。
おずおずととよは頷いた。末の兄は大好きだ。家族も、たとえ苛められても近所の子供がおかしなものに襲われるのは、とよは嫌だった。
いい子だ、と呟いた男が、笑みを深くしてとよの額を撫でる。
「心配しなくていいよ。このあたりの悪い“モノ”は祓っておくから。たぶん、二十……十五年はもつと思う」
そして男は跡形もなく消え去り、追いかけてきた末の兄は、腰の抜けたとよを家まで負ぶってくれた。
――どうしてこんなことを思い出すのだろう、と思いながら、とよは溜息をついた。
あの日から、対外的にはとよの目は見えないことになっている。見えているものが悪いものかどうかは分かるのだが、そもそもそれが普通に見えるものかどうかがとよには分からないのだ。
順之輔がつれてきた子供だって、その不思議な気配のせいで人間でないことはすぐに分かった。そしてあの子は数え切れないほどの死臭を背負っていた。きっと良くないものなのだろう。
「……十五年はもつって言ったのに……」
男が言っていた言葉を鵜呑みにしたわけではないけれど、とよはそれに縋るしかなかった。
順之輔のそばで嬉しそうにはしゃぐ子供の様子は、たしかに見ているこちらの胸まで温まるような微笑ましさだったけれど、子供の影に付きまとう影にとよの肌は粟立つ。子供の頃夢中で逃げた恐ろしくておぞましい存在が、どうしても脳裏を掠めるのだ。
思い出すだけで悪寒が走る。あの子がいると、きっと何か悪いことが起こる気がしてならない。
怖い。あの子を追い出したい――自分を庇うたびに近所の子供に苛められていた順之輔を、守れなかった自分を思い起こさせるあの子を。
きっとあの子にも、順之輔に何かが起こったところで守れないのだと、確信のようなものがとよを覆う。
「――いい加減に泣きやみなさいよ、誰かに聞こえたらどうするの?」
不意に廊下から聞こえてきた家人の声に、とよの意識がそちらへ向かった。
「だって、私悔しくって……っ!!」
「順之輔様はお優しい方だもの、すべてをご存知で承知なさったに違いないわ。皆だってそう言ってたじゃないの」
「だからって、お手つきの傷物を掴まされるだなんて、いい笑い者じゃないの! どうしてあんなにお優しい方が……っ!!」
喉を詰まらせた家人はもう一人に宥められ、とよの気配に気付かなかったらしくどこか別の部屋へ行ってしまった。
じり、と焦げるような思いがとよの胸を焼く。
どうして順之輔ばかりが割に合わない目を見るのだろう。あんな“モノ”に好かれたばかりに――かつて自分も同じ目に遭わせたことから必死に目を逸らし、唇を噛み締める。
じわじわとこみ上げる思い。必死に目を逸らしても見えてくる――見えてくるからこそ、許せないと思う気持ち。
庭の方から聞こえてくる、逃げる子猫を追う子供の甲高い声に、とよの中で張りつめていた糸が切れる。
――それがただの八つ当たりだと分かっていても、その衝動がとよには止められなかった。
生ぬるい嫌な風がなごの頬を撫でた。