虹と蜜柑と疫病神
【三】
随分と高い所から人間を見ていた気がする。
わずかに覗く小さな火に照らされた顔はとても静かな表情をしていて、細かく動く手元は器用につぎはぎを繋げていったものだ。腰掛けた梁はとても細くて、足元に見える老婆の背中が丸く曲がっていたのをよく覚えている。
夜だった。
老婆は不意に手を止めると、肩に手を回して軽く揉み、大きな溜息をつく。どこか満ち足りたようなその仕草が羨ましかったけれど、同時に漂わせるなんとも言えない寂しげな空気と相まって、単純に不思議だった。
一人娘に先立たれてからだ。彼女がこんな風に、死んだ娘の破れた着物をせっせと繕うだなんて意味の無いことを始めたのは。
どうしてだろう、と思った。この家はとんでもなく古く、家自体がいわゆる九十九神(つくもがみ)と呼ばれるものだったので、何か知っているかもしれないと、不思議に思ったことをそのまま尋ねる。
しかし九十九神は相槌を打っただけで、疑問には何一つ答えてくれなかった。
考えても考えても分からなかったので、老婆に直接尋ねてみようと思った。人間の子供の姿になればきっと、いきなり話かけても彼女は驚いたりしないだろう。
思い切って声を掛ければ老婆は思いのほか優しく相手をしてくれて、おまけに甘い菓子をくれたのでそれは遠慮なく食べた。顎についた饅頭のカスを取ってくれる彼女の手付きがくすぐったい。相手をしてもらえることが嬉しくて仕方がなくて、畑を耕す彼女の姿を見掛けるたび、何度も老婆に声をかけた。
「なご」
名を付けられたのは、この頃だった。どうやら老婆の亡くなった娘の名から取ったらしく、老婆がそうなごのことを呼ぶと、そのたびに他人は可哀想なものを見る目で老婆となごを見比べる。
しかしなごが老婆を呼ぶたびに彼女はとても嬉しそうに答えてくれたので、なごはあまり深く考えず老婆のもとへ通った。
名前が自分という存在を指しているという事実が堪らなく嬉しかったし、老婆が自分を愛しんでくれることも幸せだと思う。
何かの折りに家はどこかと聞かれ、どう伝えたものか口ごもった。そんななごの様子をなにやら誤解したらしい彼女に一緒に住もうと誘われて以来、なごはずっと人間の子供の姿だった。この姿だから可愛がってもらえるのだということは理解していたし、自分がどんな姿でいるかというのはなごにとって大きな問題ではなかったから。
「……ばあちゃん」
いつものように火の光の中で着物を繕う老婆の背中を眺めながら、布団の中で横になる。布団をかぶる必要はなかったけれど、風邪をひくからと押し付けられたことがとても嬉しかったし、優しくされることが切なくて胸がぎゅっとなって何かつかまる物がほしかったから。
「うん?」
「どうしていつもそれを縫ってるの?」
手を止めた老婆は、一瞬どこか遠くを見た。
しかしすぐに意識をこちらに戻し、なごを見て優しく微笑む。
火に照らされたそれは、とても静かで、けれど酷く寂しそうでそれにとても悲しくなって、なごは目を見張った。
「……こうしてたら、あの子にまた会えるかもしれないだろう?」
老婆は縫い物の苦手な娘に、たびたび着物の繕いを頼まれていたらしい。そしてそれを自分でやれと突っぱねたその日、たまたま娘は崖から落ちて死んでしまった。
なごの目に涙があふれる。最初に見た時よりずっとか細くなってしまった老婆の手が辛くて、どうにかしてやれないかと思いながら、何もしてやれないことを身に沁みる辛さ。
「ばっ、ばあちゃ……っ!!」
「おやまぁ、どうしてお前が泣くの?」
「らっ……て、ぅ……っく……っ!」
老婆が笑いながら手を伸ばし、いつの間にか起き上がっていたなごの頭を撫でる。今さらどうしようもない約束に縋る気持ちが悲しくて、撫でてくれる手の温かさに涙が止まらない。
「……なご、ありがとうね」
涙が止まらなくて――自分に触れるこの温もりをどうしても離したくなくて、なごは老婆の腕に縋りついて大声で泣いた。
ほどなくして、老婆は死んだ。
なごを養うのに無茶な働き方をしたせいで衰弱してしまい、最期はまともに食べ物が喉を通らなかったせいか、見るに耐えないほどやつれて萎びた仏になってしまった。
「……ぼくのせい……?」
誰も何も答えない。九十九神は黙ったまま、けれどなごを追い出すこともしなかった。それがとても不思議だったけれど。
肯定なんかされなくても、自分せいだというのは分かった。それを実感した途端に苦しくてどうしたらいいのか分からなくなって、なごはうずくまる。
逃げたかった。
自責の念に耐え切れず、水の中をもがくような必死さで、なごはその場から駆けだした。