虹と蜜柑と疫病神
問いかけに明るい声で返した順之輔は、部屋に上がると、彷徨うようにあたりを探っていた娘――妹の手を握る。
握られた感触に安心したのか、とよは表情をほころばせた。しかしすぐに顔を緊張したものに変えて、部屋の向こう側を探るように首をめぐらせる。
幼い頃に病気をして以来目が見えなくなったという順之輔の妹は、昔からよく順之輔に懐いていた。
「とよ、大丈夫だ。今は俺しかいないよ」
「順兄さま、今しがた、どなたがここに?」
神妙な顔をしたとよが、順之輔に問いかける。
順之輔は少し困ったような顔をして頬を掻くと、握っていたとよの手を軽く振った。
「少し前に拾ってきた迷子だ。家が見つかるまで面倒を見ようと思ってな」
「……迷子……」
とよは少し考えるように反芻すると、見えないはずの目を今しがたまでなごのいた場所に定め、ゆっくりと瞬きをした。
線香の煙が、雨に洗われた空に細い線を描き、立ち上っていく。
順之輔が両手を合わせてしばらく黙祷しているのを見て、なごは見様見真似ながら一生懸命に墓石へ祈りを捧げた。ここには誰もいないのにどうしてと思いながら、それはあとで順之輔に聞けばいいだろうと思い直して、続ける。
桶に汲んで持ってきた水は、墓を洗った後手を洗ったので空になってしまった。道の途中で順之輔が買った花は行儀よく墓に飾られていて、やわらかな風に揺らされて葉がさやさやと微かな音を立てる。
しばらくして、順之輔は目を開けるとじっと墓を見つめ、気が済んだのか大きく息を吐くと合わせていた両手をおろした。
それに気付いて、慌ててなごも手を下ろす。
その様子を可笑しそうに見ていた順之輔の視線に、気恥ずかしくてなごは照れたように笑った。
先ほどまでの雨が嘘のように空は晴れ渡り、真っ青な世界に綿のような雲が流れていく。
ついさっきはやわらかなものに感じた風が急に肌寒く感じて、なごは小さなくしゃみをした。
「猫はどうした?」
「え? 呼べば来るよ?」
「そうか……」
ぴゅう、とまた冷えた風が吹く。
見上げればくしゃみをしたなごよりもずっと順之輔の方が寒そうで、さびしそうで、何とも言えない気持ちになったなごは少しだけ鼻をすすった。
「……ねぇ」
「ん?」
「ここ、誰のお墓?」
なごが聞くと、順之輔は懐かしむように笑う。
「……うちの下男だった爺さんだよ」
順之輔は立ち上がると、線香の煙を追うように青い空を見上げた。
「下男……?」
「俺が二十歳(はたち)の頃に病気で故郷(くに)に戻ってな、二年前に亡くなったそうだ。本当の墓はそちらにある。だから、ここは空なんだが……」
自己満足だよ。
そう呟いた順之輔は手を伸ばすと、墓石に刻まれた戒名をなぞるように撫でた。
「俺が物心つく前から家にいてさ、俺がお前くらいの頃にはよく面倒を見てもらったんだ」
「ふぅん……?」
「今頃の季節になると、よく道で掃き掃除をしていてな。よく家の前の道で焚き火をしては、もらい物だと言って芋を焼いたりして」
墓石に触れたまま、可笑しそうに順之輔が振り返る。
「お前が倒れていた時はそうでもなかったんだが、あの参道な、普段はお参りに行く人が結構通るんだぞ」
笑顔ながら、どことなく寂しそうな、懐かしそうな表情を浮かべる順之輔に、なんと返事をしたらいいのか分からなくて、なごは口をつぐんだ。
「権(ごん)爺(じい)……俺は権爺と呼んでたんだが、権爺のそばにいるとお参りに来た人たちがよく蜜柑やら菓子やらをくれたんで、俺はずっと引っ付いてた。今思えば……」
唾を飲み込むように、順之輔が息を吸う。
「……今思えばあの焚き火は、参拝者に少しでも暖を取らせてやろうと思ってのことだったんだろうな」
冷たい風が吹く。
湿った土のにおいと、線香のにおい。もういくらもしないうちに、蜜柑がたわわに実る季節になるだろう。
懐かしそうに、しかしそれ以上に寂しそうに、切なそうに話す順之輔にぐっと胸が締め付けられて、なごは息を飲む。
「……婿に行ったらもう、こうして思い出すこともなくなるのかもしれないな」
思いのほか沈んで響いた、順之輔の声。
「……そんなことないっ!」
思わず半分以上が涙声になったなごの叫びに、叫ばれた方は驚いた表情でぽかんと口を開けた。
「……は……?」
「ぼくがここにいる! 順之輔がいられなくなっても、ぼくがずっとここにいるよ! ぼくだってずっと順之輔のこと待ってるもん、順之輔はちゃんとここのこと思い出すもん!!」
「な、なご……?」
顔を真っ赤にしてわめき、仕舞いにはぼたぼたと涙を流しだしたなごに、順之輔はどうしたらいいか分からないらしく、しばらくわたわたしていた。しかししゃくりをあげ始めたなごを目の前に、ようやく落ち着いたようで袖でなごの涙をぬぐう。
「わっ、忘れっ……な、もん……うっく……っ!」
「分かった分かった、大丈夫だよな? なごがここに居てくれるんだもんな? ありがとう、嬉しいよ」
「ほっ……ほんっ、と……っ?」
「本当だって。ハイ大きく息吸ってー、吐いてー……」
寂しがる順之輔に涙が止まらない。まともに息ができなくて、苦しい。なにがなんだか分からないけれど、悲しそうにする順之輔の何もかもが悲しくて仕方がなくて、なごは大声で泣いてしまった。
どうしてこんなに悲しいのか分からない。
忘れられること、忘れてしまうと恐れること、もうここに居られないと実感すること全てが寂しくて、切なくて、やりきれない。一生懸命なだめてくれる順之輔の声も耳に入らないのだ。
どうしてこんなに辛いのだろう。悲しいことがあった? どうして一緒にいられないのか――
――自分が一緒にいたせいで悪いことが起こったから?
駆け寄ってくる子猫の気配で、なごは我に返った。空気を通して伝わってくる気配に全身が粟立ち、いきなり腹の中を冷やされたような悪寒がなごの背筋を冷やす。
夢に見た老婆の笑顔。痩せ細った腕の感触、いまわの際のかすれた声――夢に見なかったものまでが、まるでたった今起こったことのようになごの記憶に浮かぶ。
――あれは夢じゃなかったのだ。
苦しいほどしゃくりあげていたのが嘘のように、息を詰め、なごは子猫が走り寄って来る方を見た。
背が高くすらりとした人影が、こちらを見ている。
「? なご?」
不思議そうな順之輔に肩を叩かれ、思わず縋りつく。なごの視線の先を追いかけて子猫が駆け寄ってくるのを見つけ、そのもっと向こうに人影を見つけてた順之輔が、妙だと思ったのか眉を顰めた。
口に当てた手を握り締めるが、堪えようもなく小刻みに震えてしまう自分が情けなくて、なごの目に涙が浮かる。
思い出した。
自分は疫病神だったのだ。