虹と蜜柑と疫病神
【二】
――息が詰まる。
ひきつって本来の機能を果たさなくなった喉のせいか、飛び起きたなごは汗びっしょりになって肩で息をしていた。
一体何の夢だろう。
どうしてあんな夢を見たのだろう。妙に実感を伴った夢だった。視界はそのまま自分のもののような気がして、背筋に悪寒が走る。
むずむずと胸の奥に嫌な感覚が広がって、なごはぎゅっと胸のあたりを握った。
苦しい。大声で泣きたい。どうして。違う、違うのに。
「……“ばぁちゃん”……?」
夢の中の自分がしていたように、夢の中の老婆を呼ぶ。
呼んだ途端に、老婆の自分を見る穏やかな笑顔が明確に思い起こされて、なごは唾を飲み込んだ。
頭の隅をちらちらと掠める思い出せない何かが、少しずつ形になってなごの胸に影を落とした。
なごが順之輔に拾われて、数日。
ふと泣き声がして天井を見上げたら、茶トラの子猫が梁に上って下りられなくなっていた。
ぷるぷると震える様子が可哀想で、なごは一っ跳びに梁の上へ上がるが、すっかり怯えてしまったらしい猫は、梁に爪を立てて少しも動こうとしない。
天井に張られた太くて真っ黒な梁をまたいで、天窓から空を見る。鈍色の空を厚い雲が覆っていて、今にも泣き出しそうだ。なごは何とも言えない気持ちになって、視線を子猫へ戻した。
子猫は相変わらずぷるぷると震えていて、大きな眼で恐る恐るなごの様子を見ている。下は土間だから、板の間に落ちるよりは多少マシなんじゃないだろうか。知らないけれど。
「……おーい、こっち来いー」
いっぱいに伸びをして、そぉっと片手を子猫の方に差し出す。しかし子猫の方は怖がって寄ってこなかったので、なごはじりじりと梁をまたいだままにじり寄った。
「おーいってばー……いでっ!」
やっとこさ届いたので片手で抱くと、必死の猫に爪を立てられる。
「いたっ! ちょ、痛いってっ!!」
驚いてとっさに腕を振り回しそうになる。しかし子猫の方も必死だから離れまいとさらに爪を立ててしがみつくので、なごの方は堪ったものじゃない。
「い、いたたたたっ! ちょ、やめ……うわっ!」
耐え切れず思い切り振り回しそうになった腕を、それは駄目だともう片方の腕で押さえようとした。その拍子に、ぐらりと重心が傾く。
あれ、と思う暇もなく体が傾き、またいでいたはずの梁がすり抜けるようになごの足から離れていった。
一瞬の間。
ぎょっとして、なごの体が強張る。とっさに悲鳴をあげようと、なごは大きく息を吸った。
「おわっ!」
――しかしもっとぎょっとする声が背中から聞こえて、なごの息は結局何の音も発することなく口から抜けていった。
気付いたら仰向けに寝ていて、梁から落ちたのに痛みも何もない。腕の中の子猫もびっくりした表情で硬直していた。
「……なご、お前何してる」
背中には温かくて柔らかい感触があって、肩越しに振り返ると青筋を立てた順之輔の表情とかち合う。
「う……?」
「何してるって言ってんだ」
「あ……あ、あのねっ! 猫がねっ!」
「そうじゃないだろ。ったく……」
「へっ? わ、わきゃぁっ!!」
いきなり後ろ手で腹に腕を回され、順之輔が起き上がるのと同時に子猫と一緒くたに抱き上げられて、なごは今度こそ――子猫と一緒に、悲鳴をあげた。
「ソイツが梁の上にいたのか」
「うん」
どうして道端に倒れていたのかなどを根掘り葉掘り尋ねられるが一向に思い出せない。ならば仕方がない、子供一人で放り出せないからと、当然のように順之輔の家に抱え込まれたなごは、無くした記憶を探すかたわらけっこう気ままに日々をすごしていた。
小雨の中。部屋の縁側に腰掛け、やっと安心したのか丸くなって眠る子猫を膝に乗せて、なごはその背中を撫でた。順之輔の様子からするに、家の中にいたけれど特に飼っているというわけではないのだろう。順之輔の家族も、子猫を抱いたなごを見ては、おや可愛い子だなぁと両方の頭を撫でただけだったし。
そして、傷だらけになったので順之輔に手当てをしてもらったなごの両腕を見ては、可哀想になぁと飴玉や菓子をくれた。美味しかった。
「しかしお前、梁の上なんてどうやって上ったんだ? 梯子も何も出てなかっただろ」
「? 跳んだら届いたよ?」
「……へぇ、そりゃすごいな……」
隣に腰掛けていた順之輔は、あいまいな表情で溜息をついた。その様子が不思議でなごがじっと見上げると、順之輔は軽く笑ってなごの前髪をぐしゃりとかき混ぜる。
少し顔を歪ませたような順之輔の様子が不思議で、なごは少し身を乗り出すと、順之輔の顔を覗きこんだ。
ひさしにさえぎられた小粒の雨が溜まり、それが大きな滴になって砂利の上に落ちる。
見返してくる特に美形でも醜男でもない顔に、なごは向かい合って首を傾げた。
「信じてないの?」
「ん、いや? お前が跳んだって言うなら、跳んだんだろ」
「……おかしい、こと? 普通は跳べないの?」
「まぁ、俺は跳べんな」
苦笑する順之輔を見上げ呆けていたなごはしばらくぽかんとしていたが、はっと我に返り、俯く。
そういえば人間は、梁までの高さとなるとなかなか跳べなかった気がする。自分が跳べることが何もおかしいわけではない、ということは分かるのだけれど。自分は人間ではないのだし。
あれ、と思う。
だったら、自分は一体何者だっただろう?
「なご?」
「えっ? あ、う……?」
「ソイツが撫でろって言ってるぞ」
順之輔に指を差されて膝の上を見ると、いつの間にか起きたらしい子猫がなごを見上げて小さな声で鳴いた。子猫の背を覆う形で止まったなごの手に、懸命に頭を擦り寄せてくる。
「おっ……」
ふと、風が吹いてなごの前髪が揺れた。
急に明るくなった視界と、何かに気付いたような順之輔の声に顔を上げる。いつの間にか雨が上がって明るくなった空の向こうには、カケラのような虹が空に架かっていた。
そのゆらゆらと漂うような光に、思わず見惚れる。
「……これは晴れるな」
感心したような溜息がすぐ隣から聞こえてきて、なごは我に返ると、思わず順之輔の顔を見た。
「まぁ晴れてばかりでも困るがな」
構えたところのない、真っ直ぐで尖った部分のうかがえない順之輔の横顔に安心して、なごは大きく溜息をつくと肩の力を抜く。
「今日はどうする? 俺は墓参りに行こうと思ってるが」
そんななごの様子を見ていたのか、順之輔は大きく伸びをすると肩を鳴らし、なごに向かって微笑む。
「墓参り……?」
「婿入りの報告をしようと思ってな。一緒にいくなら、桶に水を汲んできてくれ」
一緒にいてもいいのだと告げる言葉に、嬉しくなってなごの頬がかすかに赤く染まった。
「……うんっ!」
「おう」
嬉しさそのままに膝に乗せていた子猫を抱き上げて、駆け出せば急に揺さぶられた子猫から非難のような鳴き声が上がる。けれどそれすらもなんだかくすぐったくて、なごはくすくすと笑いながら井戸に向かって駆けだした。
――す、と部屋の奥の襖が開く。
順之輔が振り返ると、襖に縋るようにして一人の娘が立っていた。
「とよ、どうした?」
「順兄さま……?」
「ああ」