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虹と蜜柑と疫病神

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【一】





 頬に触れる地面は、背中を撫でる風にくらべて随分と温かかった。目を閉じるとざらざらした感触が頬に当たって、それが無性に悲しくて涙がにじむのが分かる。
 哀しくて、切なくて、苦しい。なのに、どうして涙が出るのか分からない。
 辛いことがあったような気がした。でもそれが何だったのかは思い出せないのだ。
 地面を握っていた手から力を抜くと、指の隙間から砂が流れて、生暖かいその感触が気持ちよかった。
 そしてやっぱりひどく惨めで、悲しい。

「――い、おい!?」
 不思議に熱い感触に肩をつかまれる。
 少し揺らされて、それに目を開くと睫毛の先に涙が伝った。
「……おい、どうした? 腹でもへったか」
 優しい声。
 うつ伏せたまま、目だけで声の主を見上げた。
 覗きこんできた顔は、なご と目が合うと軽く笑った。人間の男。安心させるようなその表情に、ついなごの頬も緩む。
 無意識に口の端が上がりかけ――
「……っうきゃあぁっ!!」
 ――そして途端に目が覚めて、なごは飛び起きた。
「……元気そうだな」
 びっくりした表情そのままに自分を見つめるなごと向かい合うと、しゃがんでいた男は、構えのない動作でなごの頬に手を伸ばした。
「っ……う……?」
「どうした、転んだのか?」
 指先で頬をなでられて、にじんでいた涙をぬぐわれる。そういえば泣いていたのだと思い出して、なごは慌てて目元をこすった。
 砂だらけ泥だらけの着物から埃がたち、短く切られぼさぼさの髪からはぱらぱらと砂が落ちた。いささか乱暴に涙をぬぐう。
 どうしてか必死になって目をこするなごの肩を、男は宥めるように軽く叩いた。頭の上から吐息のような笑いが降ってきて、つられて顔をあげると男と目が合う。
 男はなごを見ると、今度は困ったように笑った。
「あーあ……そんな乱暴に擦るからだぞ」
「え?」
「目が真っ赤」
 ぽんぽん、と撫でるように頭を叩かれて、なごは訳がわからなかった。どうしてこの人は自分を見ているのだろう。彼の向こう側に見える往来を歩く人間たちは、誰も自分になんか目もくれなかったのに。
「往来で昼寝か? 寝るには眩しいだろ。それに寒いし」
 両手をつかまれ、引き起こされて、着物の埃を払い落とされる。
どうして彼は自分に触れるのだろう。笑いかけられた。どうして。
「……聞こえてる?」
「う、ん……?」
「耳が悪いわけじゃないんだな。人に何か聞かれたら、ちゃんと返事しなさい……っと」
 膝や鼻先の砂も払い落とされる。片膝をつき自分と視線の高さを合わせて言う目の前の相手から、どうしてか目がはなせない。
「どこの子だ?」
 笑っていた表情が、不思議そうなそれに変わる。
 真っ直ぐにこちらを見る。そうするのが当たり前のように、表情を見極めようと覗きこんでくる。何のためらいもなく、男はなごに触れてきた。
「この辺りの者じゃないよな。なんて村から来たか、分かるか?」
 自分をじっと見つめる瞳にどうしてか嬉しくて仕方がなくなって、なごは思わず飛びつくように男の袖をつかんだ。
 驚いたらしく男が目を見開いて、きょとんとした表情でなごを見た。真っ直ぐに自分に向けられる優しい視線のせいで胸がいっぱいになって、つい喉が詰まる。
「な、ご……っ!」
「なご? ……聞いたことないな。どっちの方角――」
「違う、なご! ぼくの名前っ!!」
 喜びの勢いのままつかんだ袖を思い切り引っ張ると、男はまた少し困った顔で笑った。
「……そうか、俺は順之輔だ。ところでな、なご」
「うん、なにっ?」
「袖を引っ張るな」
 そして、ぽこん、と頭を軽く叩かれた。

 ぺたぺたと裸足で歩く参道は踏み固められているせいか畦道より硬かったけれど、大きな石もなく、踏みつけて痛い思いをすることもない。
「それにしても随分と汚れてるな……泥遊びでもしたのか?」
「遊んだ……の、かな。えっと……?」
「オイオイ大丈夫か? 頭でもぶつけたんじゃないだろうな」
 てのひらから伝わってくる人の体温が嬉しくて、ぴょこぴょこ跳ねるようになごが歩いていると、それをどう思ったのか順之輔は少し速度を落とした。
「……まぁいいけどな。家に戻れば俺のおふるがあるから、もうちょっと我慢しろよ」
 手をつなぎ、連れ立って歩く参道はいつもより人通りが少ないのだそうだ。しかし人とすれ違うたびに声をかけられる順之輔と一緒だと、普通に歩く倍以上の時間がかかるんじゃないかとなごは思う。思っただけだが。
 順之輔の言葉についつい顔がにやけて、けれどどうしてかこみ上げてきた不安を、なごは飲み込んだ。どうして不安なのかは分からなかったが、頭の隅をちらちらと黒い影のようなものが掠める。きっとこれが不安の原因なのだろう。
「どうした?」
「へ……えっ!? な、なに?」
「何って……疲れたか? もうすぐ着くからなー」
「う、ん……」
 ちらりとなごを見下ろした順之輔は、正面を向くとまた歩きだした。話はもう終わったらしい。
 手を引かれる格好でなごもまた歩き出して、小石に躓く。転ぶ前に引き上げられて、見上げると、順之輔が呆れた表情でなごを見下ろしていた。
 ざわ、と胸の奥がさざめく。
「……あのな、なご」
「えっ? な、なに? 順之輔――ぃてっ!」
「目上の人を呼び捨てにするんじゃない……まぁ、お前に“順之輔さん”なんて呼ばれても妙な感じだが」
 急に肥大した不安。それを隠す暇もなく見下ろされ強張った表情のまま見合ったなごに、順之輔は大した反応もせず指で額をはじいた。
 びっくりして額を押さえると、ため息混じりに鼻頭をつつかれる。
「……置いてなんかいかないから。あんまり強く握るな、歩きにくい」

 ぐっと、冷たい手で胸を鷲掴みにされた気がした。

 言葉に詰まったなごをどう思ったのか、順之輔の手が伸びてきて、ぐしゃっと前髪をかきまぜられる。そのまま立ち上がると、順之輔は繋いでいた手を引っ張って、再び参道を歩きはじめる。
 無意識に唾を飲みこみ、俯いたまま、なごもそれについていった。
 胸が嫌な音を立てる。
 “置いていかれる”とは、どういうことだっただろう。置いていかれた記憶なんかないのに、どうしてこんなにも怖いのか、それがよく分からないのだ。
 しばらくすると塀に囲まれた屋敷が見えてきた。その大きさにぽかんと口を開けてしまったなごにかまわず、順之輔は当たり前のように門を潜り抜ける。
「よ、順之輔……?」
「今の時期に水は寒いな……ちょっと待ってろ、今湯を沸かすから」
 そのまま腕を引かれて屋敷の中に入ると、手を放した順之輔が、いかにも慣れた手付きで水を汲んだ鍋を火にかける。
「あとは手ぬぐいと着物……っと」
 順之輔は懐を探ると、藍色の手ぬぐいを取り出してなごに渡した。
「あの、順之輔ってば……」
「ああ。ここは俺の家だから遠慮しなくていい。ちょっと火を見てろよ、着物探してくるから」
 気軽に自分に向けられた順之輔の背中は、とても広い。そのまま草鞋を脱いで部屋に上がろうとする、順之輔の後姿。
 どくん、と、なごの胸がまた嫌な音を立てた。
「ま、待って……やだ、行かないで!!」
「ぅおっ! っと……」
作品名:虹と蜜柑と疫病神 作家名:葵悠希