虹と蜜柑と疫病神
【七】
痛いほど降り注ぐ雨の中を駆けて、なごは川沿いの道を走った。雨のせいで目が開けられず、なかなか速度が上がらない――そんなのは嘘だ。だって自分は、さっきはあんなに早く走れたのに。
お別れだ――お別れだなんて、そんなの嫌だ。でも。
あんなに探しても見つからなかった、子猫がいる場所も、とよのいる場所も、今は分かる。順之輔たちがいるところの様子も、あの男がどういうつもりなのかも。
そして、このままだと何がどうなるかも、なごには分かるのだ。
とにかく早く子猫ととよを連れ戻さないと、あんな所にいたら溺れ死んでしまう。早く。早く。
――でも!
ごうごうと竜の唸り声のような音を立てて流れる川は、信じられないほど水かさが増していて、堤は今にも決壊しそうになっていた。
「……っ順之輔!」
村の男たちがせっせと堤に土嚢を積んでいて、なごの声は濁流に呑み込まれてしまうのか、少しも聞こえていないらしく誰一人顔を上げない。
「順之輔……!!」
少し高い所で順之輔の父親が指揮をしているのが分かる。その少し離れたところで、順之輔の上の兄も同じように村人へ指示を出していた。
下の兄は村人にまぎれて土嚢を運んでいる。順之輔はどこだろう。早くしないと、子猫が、とよが。
よろけた少年を支えた影に、はっとして息を呑む。
「……順之輔ぇっ!!」
ほとんど泣いているような声で、なごは叫んだ。それでも届かないらしく、村人は誰もなごを見ようとしない。絶望的な気持ちになって、喉が引きつる。
けれど不意に順之輔は顔を上げると、あまり辺りを見回すことなくなごの方を見た。
目が合って、それだけのことに安心して座り込んでしまいそうになる。足が震えだして、目の奥が熱くなった。
しかし今倒れるわけにはいかない。なごはまだこれから、順之輔をとよの所まで連れて行かなければならないのだから。
そして連れて行ったら自分は――考えそうになって、やめる。
そうしているうちに、順之輔が驚いた表情でなごの傍まで駆け寄ってきた。
「なご! お前、どうしてここに――」
「順之輔あのね、とよさんが……!」
説明しようとして、けれどどう言えばいいか分からなくなって、もたつく。気ばかりが急いて、混乱して、頭が破裂しそうだ。
「とよが? とよが何だ」
とにかく早く、順之輔を連れていかないと。
「あの……えっと、こっち!!」
なごは順之輔の手をつかむと、説明もそこそこにそのまま走り出した。
人間の、大人の男が普通に走れる速さは、どのくらいだっただろう。まだ余裕のありそうな順之輔の手を握りなおし、少し速度を上げる。そう、たしかこのくらいだ。少しずつ頭がハッキリしてきた。
「おいっ……なご!?」
「あのね、とよさんがぼくの猫を助けようとしてくれてね、あっちの川岸にいるの!」
「なに……!」
順之輔が目を見張ったのを気配だけで感じて、苦しくてぐっと歯を食いしばる。
これからなごがすることを告げれば、順之輔はきっと反対するだろう――反対してほしい。
でも。
「お願い、早く……早く助けてあげて!!」
堪えきれなくなって叫ぶと、その拍子にまた涙が流れた。けれど今度はほんのわずかだったそれは、すぐに叩き付けるような雨に晒されて分からなくなってしまう。
順之輔に一緒にいてほしい。一緒にいたいのだ。一緒にいて、楽しそうにしていてほしい。自分にも優しくしてくれれば、嬉しい。
だから順之輔が悲しかったり辛かったり、ましてや死んだりしまったら、何の意味もないのだ。
畦道に入りぬかるみを駆け抜けて、また川岸に出る。濁流はこちらも同じで、本当はこちらの堤の方が早く決壊してしまうのだ。だから、急いで助けないと。
「ここか?」
緊迫した問い掛けに頷いて、必死に首を巡らせる。あの辺りにいるはずなのに、影が見つからない。手遅れではないのだ、だってとよはそこに居るのだから。
隣で順之輔が大声を張り上げる。しかしこの豪雨と濁流では、とよの耳には届かないだろう。
雨のせいで視界がきかない。川の中に不自然な流れはないだろうか。早く。早く。
とよは子猫を探しに出たなごのことを追って、外に出たのだ。そして子猫を見つけ、怯えて動けなくなってしまったのを助けようとしてくれた。
また、自分のせいだ。あの時自分が屋敷に戻らなければ、子猫もとよもこんな目に遭わなかったのに。
お別れだ――そう言い切った男の声が、頭の中でこだまする。
もう本当に、お別れだ。そうした方がいいのだ。これ以上悪いことを辺りに振り撒いてしまう前に――
――それが、どんなに寂しいことだろうとも。
「……あそこだ……!」
影を見つけたらしく、そう呟いた順之輔が走り出す。つられて見ると、たしかに子猫を抱いたとよが、うずくまって動けなくなっていた。
なごも、川に向かって走り出した。
順之輔がとよの名前を叫ぶ。どうしてか聞こえたらしいとよが顔を上げ、順之輔の姿を見つけてなんとか立ち上がろうとした。しかし足をとられて転び、川の中へ落ちそうになる。
風のような速さで駆けたなごは、順之輔を追い越すと、振り返ってその顔を見た。
たくさん泣いたせいで真っ赤になった顔のまま、順之輔に笑いかける。
「それをしたらもう、君は皆とはお別れだ」
そう告げた男の声は酷く落ち着いていて、なごは唾を飲み込んだ。
「……簡単に言うなと怒るかい?」
でもね、と真摯な男の目がなごを見詰める。
「きっとそれが、皆が一番幸せになれる方法だよ」
よく分からないものが胸の奥に湧き上がる。湧き上がったものが胸に広がり、なごは苦しくて意味もなく口を開いた。唇が震えて、喉は固まって、もう声なんか出ない。
どうすればいいかは知っているね? ――そう言われて、なごは黙ったまま頷いた。知っていて、でもそうすることがどうしても嫌で、なごは今までずっとそれをしなかったのだ。
どうすればいいかなんて、本当はちゃんと知っている。みんなが傷付かずに済む方法を。
「……して……?」
――皆が一番幸せになれる方法を。
ようやく動き出したなごの喉が、掠れた音を立てた。
「うん?」
「どうして、そんなこと言うの……?」
小さなそれは雨音に掻き消されそうなものだったけれど、男は拾い上げてくれたらしく静かな声で相槌を打つ。
なごの問いかけに男は一瞬瞳を揺らすと、それを隠すように柔和な笑みを浮かべた。
振り返って川に背を向けたまま、濁流の中に跳びこむ。順之輔の驚いた表情と、とっさだろう自分に向かって伸ばされた腕が嬉しくて、なごは頬を緩めるとそのまま目を閉じた。
やっぱり順之輔は止めてくれた。それだけでいい、十分だ。
背中にかすかな衝撃を感じる。そして壁をすり抜けるように、なごの体は一瞬で濁流に呑み込まれた。
お別れなのだ。もう皆には会えない。触れることも、話をすることもできないだろう。とても寂しいし、悲しいけれど、一緒にいてほしい人にほんの少しでも惜しんでもらえたなら十分だという気持ちも、嘘というわけではないのだ。