完全犯罪
部屋に戻ってすぐにベッドに横になってしおりを挟んだところをとって読み進めていく。文字をおって、時々、身体の体勢をかえて仰向けになったり、身体を軽く動かしたりする。本の文字を追いに追い続けて、本の世界にどっぷりと頭が浸かっていく。そうして、はじめ左のページが分厚かったのに、しだいに右のページが分厚くなっていく。そうして、文字を追い続けて《完》という言葉に行き着いてしまった。
あーあー。
私は、完の文字を二回も嘗め回すように見て、ため息をついた。終わってしまった。終わらせたくない、けれど、終わりまでよみたい。なんだか不思議だった。そして、久しぶりにこんなにも楽しく読めたのに素直に喜んで身体を伸ばした。んー、両手を天井に向けてこった体が小さくこきっと音をたてる。
そうして、少しだけ時間がきになりだして、ちらりと時計をみて私は、あっとした。
「もう十時だ」
時間のことを口に出していうと現実として受け止めてしまった。もしかして、ごはんを食べてから、ずっと本を読んでいたんだろうか。なんて集中力だろうかと、自分で自分にたいして感心してしまった。
頭は、まだ本の世界の余韻にひたって、なんだかふわふわする。これが俗に言う浮遊感。まるで真っ白な、そう海で泳ぐ感覚に少しだけ似ている。実際の海はそれほどに好きではないし、泳ぎに行ったのは随分と昔だけで、ふわふわとした、水に浮いたようなかんじだ。
私は満足感を感じながら、疲れを味わう。本を読んでいたときは全然、かんじなかった一日の疲労が押し寄せて、私を眠りへといざなおうとする。これは、いけない。慌てて部屋を出た。
はやくお風呂にはいって寝てしまおう。
女の子として一日の楽しみはお風呂に入ることなんだから。部屋を出ようとして私は、ふと足をとめて、ベッドにある本を手にとって作者の名前を見た。この本の作者の名前は私は見たことがなかったし、聞いたこともなかった。なんと読む人なのだろう。私は、本の一番最後の作者の簡単な紹介のところを詠むことにした。そこに大抵、ペンネームのふりがなともふってあるものだ。場合によっては写真もあることもあるのだけど、この本には写真はなかった。ただ最後のページの印刷やら、発行者やらのかかれているページの上のほうに「風紋」そうかいて《ふうもん》だそうだ。変わった名前だ。なにか意味があるのだろうか。
私は、そんなことを頭の中で考えながら部屋を出てお風呂に入った。
お風呂の暖かい湯船の中で、じっと私は考えた。
風紋一郎。
その名前がぐるぐると頭の中でまわる。
そして、先ほどまでどっぷりとつかっていた小説のこと。
なんだろう、頭がくらくらする。
まるで陶酔しているようだ。お酒によったような――飲んだことはないけど、そんなかんじがする。
《》
私は、その日、学校の帰りに寄り道をした。今まで寄り道というものをしなかったわけではない。ちょくちょく本屋によることはあった。
一応、バカ校と呼ばれていても規則があって、その規則ではアルバイト、寄り道禁止。もちろん、それを守っている人なんていない。そんなわけで、ほとんどの人が放課後はアルバイト先に早々と行くか、友達とプリクラをとりに行くかの二つだ。私の場合は、アルバイトをしていない、友達とバカ騒ぎするお金もない。つまるところは、本当になにが楽しいんですかといわれるような人生をひたすらに続けている。
友達には本当に「なにがたのしいの?」などと聞かれてしまった。そのとき、友達は「アルバイト、一緒にしよう」と誘ってくれた。そして、受けた結果、私は要領悪く落ちた。友達は受かった。その日から、その子とは交流がない。こんなものだ。
家にいって、学校にいく。そう、その繰り返し。そして、時たま寄るのが本屋さん。私は、その日、本屋で風紋の名前を探した。
探してすぐに見つかった。ハードカバーのミステリコーナーのランキングの一位に堂々と置かれていた。いままで何度も本屋さんに足しげく通っていたのに、今まで気がつかなかったなんて、灯台下暗し。そんな言葉を思い出す。本当に私は、興味ないことはまったく見ないタイプだから。ランキング一位の本、それは私が読んだ本だった。それで他にないかと思って探すと本棚かの一番上にあった。それに手を伸ばすが、なかかなにとれない。誰かを呼ぶべきかと思いながら必死で爪先立ちをする。そうすると、後ろから手がのびて私のとろうとした本をとる。
「はい」
そういわれても私は五分ほどわからなかった。
そしてふりかえって、男の人が私に本を差し出しているのを見て目を瞬かせた。
この人は、私に本をとってくれたんだ。そんなことを考えてなんだか恥ずかしくなってうつむいた。
「ありがとうごさいます」
礼儀正しくいって本を手にとって相手を失礼のない程度に見る。
サングラスをかけていてベール帽子をつけている。それも茶色のセーターに上着。耳にはピアスなんかしている。なんだか見るからにいまどきの若者というかんじがして、私はひどく恐縮してしまった。
「じゃあね」
そういって彼がいってしまうのに、私は背中をちらっと見てはぁと息を吹いて、本をじっと見た。素敵な本だ。青い水の波紋のようなカバーは人目で幻想的な雰囲気で私は釘付けとなった。そして裏を見ると値段がかいてある。二千円……うわ。私は一瞬、眉間を寄せてしまったに違いない。ここに誰もいないよねと慌てて周りを確認してしまった。財布を取り出してため息をついた。私の貰っているおこづかいはそれほどに多くない。だが、もう手に取ってしまっている。そうしてあれこれと心の中で自分に言い訳するぐらいならばかってしまえ。そう決意して私は本を手にレジへと直行した。
そして、そのまま家まで真っ直ぐにかえった。寄り道したくても、もう私には寄り道する余裕なんかがまったくない。
財布はすっからかんとなって、虚しいほどに軽い。そのかわりに手にもっている本屋の袋につつまれた本は、ずっしりと重い。それで私は満足した。
家に戻ると、すぐに自分の部屋にいって本をおいて服を着替える時間も惜しくて本を袋からだして目をぱらぱらと通す。本当は買う前にいつも本を軽く流し読みしりたするけど、この本に関してはなにもしなかった。しっかりと読みたかったからだ。そして私は、本の世界にいざなわれる。本の一行から、ずっしりと頭に文面が流れ込んできた。
「辞典をかいたいから、お金ちょうだい」
その日、私は、母親に嘘をついた。
私の両親は、意外と必要なものをほしいというと疑いなくお金をだしてくれる。今まで私は、嘘をついたことはない。
「はい」
母が五千円を差し出すのに私は生唾をごっくりと飲んだ。
はじめて、母を裏切る。
辞典を買うなんてもちろん、うそ。風紋先生の本をかいたいから。けど、そんなことをいったらお金をくれるはずがない。バイトだってしていない貧乏な私は、母親に嘘をつく以外の方法でお金を手に入れれないのだ。もちろん、次のお小遣い日まで我慢すればはいることだけど、それまでとてもまてそうになかった。