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そこにあいつはいた。

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其の二十五.絶対に、守る。


「火事だ、葉月!」
 叫びつつ着ていたトレーナーの裾をたくし上げて鼻と口を覆い、火が出ているとみえる台所に向かおうとするも、どうやら階段下辺りから出火したらしく、白煙と熱気が充満した入口は既に通ることができなかった。壁を舐め尽くす火の勢いは、明らかに素人が鎮火できるレベルを超えている。
「何? 火事って……」
「下りてくるな!」
 一歩足を踏み出しかけた葉月に叫び返して、階段を一気に駆け上がる。
「健一……」
「逃げるぞ、葉月!」
「え、逃げるって、でも……」
「一瞬だけ窓開けて、ベランダから飛び降りる」
 息を呑んで表情を凍らせる葉月に、にっと笑いかけてみせる。
「大丈夫、俺がついてる」
 大きく見開かれた黒い瞳をのぞき込み、自分に言い聞かせるためにゆっくりと付け加える。
「絶対に、守る」
 それから、何か言いかけた葉月の肩を強引に左手で抱くと、充満してくる煙を吸わないよう息を止め、姿勢を低くして窓際に向かった。
「俺、分かったんだ」
 葉月の肩を抱いていない方の右手で、七面倒くさいネジ鍵を外しにかかる。
「お前がいない間、俺はずっとお前を求めてた」
 葉月は無言のまま、俺を見上げたようだった。
「お前がいないことが受け入れられなくて、現実から目を背けて、諦めたふりしてたけど……その実、俺はずっとお前を待っていたんだ」
 
 そう。
 俺は、神無の中に葉月を見ていたんだ。
 初めて押し入れに現れた、あの姿を見て以来ずっと。
 黒髪のおかっぱを、この茶色いウエーブヘアにすげ替えればすぐに気づいただろうに。
 全く、鈍すぎるよな、俺ってば。

 もうもうと立ちこめる白煙にむせながらも何とかネジ鍵を外し終え、すぐさま窓枠に手をかける。
「……あれ?」
 開かない。
 いつもながら建て付けの悪い窓が、何に引っかかっているのか微動だにしない。
「くそっ……」
「開かないの? 健……ケホッ」
 言いかけた拍子に煙を吸い込んだのか、葉月はそのまま激しく咳き込み始めた。
「鼻と口、ハンカチか何かで押さえ……ゲホッ」
 言ってる側から自分もむせる。っていうか、視界が利かなくなってきた。至近距離にいるはずの葉月の姿さえ、白く霞んで見える。
 何だってこの窓開きやがらねえんだ! この一大事によ!
 必死にガタガタ揺すぶって開けようとするも、窓枠はまるでコンクリートか何かに固められてしまったかの如く微動だにしない。
 俺たちの周囲を取り囲む煙が、次第にその濃さを増していく。
「葉月、床に伏せてろ」
「え……ケホッ、健一は……」
「俺は大丈夫。早く!」
 肩を抱いていた手を外して突き放すと、葉月は言われたとおり床に俯せた。
 空いた左手で口と鼻を押さえつつ、再び窓を引く手に力を込める。
 だが、火事の熱で変形でもしてしまったのだろうか? いつもなら振動を与えるとガタガタとうるさいほど揺れるガラス窓が、今は一分の隙無く窓枠に張り付きコトリともいわない。
 こうなっては破壊するより仕方がない。外気が入って延焼は広がるが、背に腹は代えられない。慌てて煙に閉ざされた周囲を見回して、使えそうなものがないか捜す。
 程なく手に触れた金属製で適度な重みのあるゴミ箱を迷うことなく掴み、薄い窓ガラスが粉々に砕け散るだろうことを確信しつつ、反動をつけて力一杯振り下ろす。
 金属と固い物がぶつかり合う硬質な音が、渦巻く白煙を切り裂くように響き渡った。

――え?!

 俺は自分の目を疑った。
 手にしている金属製のゴミ箱が、見るも無惨にひしゃげているではないか。
 だが、薄い曇りガラスは白っぽい表面を冷たく光らせ、何事もなかったかのように黙っている。
「何だ、これ……畜生!」
 再度歪んだゴミ箱を頭上高く振り上げ力任せに叩きつけるも、薄べったいガラスとは思えないような手応えとともに反対方向に弾き返され、俺は体勢を崩して尻餅をついた。

――何で?

 あり得ない事態に混乱しつつも、現状を分析しようと窓ガラスを凝視する。
 だが、ヒビひとつ入らずつるりとした表面を光らせながら、曇りガラスは俺たちと外界を厳然と隔てたままそこに揺るぎなく存在しているだけだ。
 その間にも白煙は、刻一刻とその濃さと厚みを増しながら俺たちの周囲を取り巻いていく。
 息苦しさが増し、さっきから咳が止まらない。
 頭がぼんやりして、力が出なくなってきた。
 既に、床に伏せているはずの葉月の姿は、煙に巻かれて影すら見えない。
「葉月……ケホッ、大丈夫か?」
 答えはなかった。
 有毒ガスを吸って、意識を失っているのだろうか?
 見る限り周囲に有色のガスは見あたらないが、それでもこの煙だ。俺だってさっきから頭がくらくらする。姿勢を低くしないとヤバいかもしれない。
 膝を突き、姿勢を低くして、僅かな酸素を取り込もうと試みるも、濃厚な煙に視界は狭まり、意識はもうろうとなってくる。
 もうダメかも知れないという思いが、脳裏を掠めた。

『葉月さんを、絶対に幸せにします』 
 結婚式の朝、泣き崩れる葉月の母親に約束した言葉。
『家事は基本分担だろ。大丈夫、絶対やるから』
 梱包された葉月の荷物を解きながら何気なく言った言葉。
『来年中には、絶対に目標額まで貯めるから』
 すきま風に顔を引きつらせるあいつに、確たる見通しもなく言った言葉。
 そして今。
『絶対に、守る』

 何が絶対、だ。
 俺はいつでも、いつまでも、口ばっかりの男なんだな。

 このままじゃ。

「……冗談じゃねえ」
 奥歯を噛みしめ、片頬引き上げ、力の抜けかけた膝頭に渾身の力を込めて立ち上がる。
「自分の言った言葉に責任取れないようじゃ、男じゃねえだろ……」
 やおらひしゃげたゴミ箱を頭上高く振り上げ、それを満身の力を込めて振り下ろしながら喉が張り裂けんばかの大声で叫ぶ。
「家事は基本分担、絶対にやる!」
 叩きつけたゴミ箱は、まるで厚さ数メートルの鉄板にでもぶち当たったかのようにあっけなく弾き返され、吹っ飛ばされて尻餅をついた。
 めげずによろよろと立ち上がり、あり得ない強度を自慢するかの如く冷然と鈍い光を放つ板ガラス野郎に向かって、再度ベコベコのゴミ箱を振り上げる。
「来年度中に、五百万絶対貯めて建て替える!」
 一番強度的に弱いと思われる中心部を狙っているにも拘わらず、ガラスにはヒビ一つ入らず、見事に凹んだのはゴミ箱の方だった。
 だが、諦めずに凹んだゴミ箱を高々と振り上げ、全身の筋力を総動員して振り下ろす。
「葉月は、絶対に幸せにする!」
 鉄壁の板ガラスにあえなく弾き返され、体勢を崩してよろけながらも、ゴミ箱をもう一度持ち直して足場を固め、ありったけの力を込めて振り上げ、喉から血が出る勢いで叫ぶ。
「絶対に、守る!」
 残る全てのパワーを結集した渾身の一撃は、厚さ僅か五ミリ足らずの板ガラスに易々と弾き返され、くの字に折れ曲がったゴミ箱も、もうもうたる白煙の中に消えた。
 反動で後方にすっ飛ばされ、思い切り尻餅をついた勢いで胸一杯煙を吸い込んでしまい、酸素が確保できないまま数刻嘔吐するかの如き勢いで咳き込む。

 これが、現実(リアル)。
 俺が向かい合うべき現実。