そこにあいつはいた。
其の二十四.マジかよ。
一分で着替え、一分でヒゲを剃り、一分で顔を洗い、一分で部屋を片付け……
ようと思ったが、全部なんてとてもじゃないができない。
玄関チャイムが鳴ったのは、何とか着替え終えてヒゲを剃っている最中だった。
剃り残しだらけの顎を擦りつつ、食いかけの食パンが出っぱなしの食卓を横目に慌てて玄関口に駆けより、ノブに手をかけようとして一瞬躊躇い、大きく息を吸って吐いてから、再度ノブに手をかけ扉をゆっくりと開け放つ。
「こんにちは、草薙さん。起きてらしたぁ?」
その途端、野太い声が響いてきたので、頭の中が真っ白になってしまった。
その人は隣家に住む横幅たくましい香坂さんだった。何故かやたらとにやにやしながら緑色の板を俺に差し出す。
「はい、回覧板。赤い羽根の募金だから、手渡しでお願いしますねぇ」
「あ、は、はい、分かりました。ご苦労様です……」
「じゃ、失礼しますぅ」
チラチラと俺の顔を窺い見ながら、踵を返して去っていく奥さんの意味ありげな態度の訳はすぐに分かった。
門扉を開けて出ていく際、門扉脇に立ってどうやら話が終わるのを待っていたらしい人物に、恭しく一礼したからだ。
その人物は、香坂さんが自分の家に入ってしまうのを見届けてから、ゆっくりと開け放たれたままの門扉をくぐってきた。
「タイミング悪かったな」
苦笑混じりに笑いかけると、葉月は肩を竦めて苦笑を返した。
「仕方ないわよ。あの人多分あたしたちのこと全部分かってるだろうし、隠したって探り入れてくるだろうから」
「大声で喧嘩してたの、近所中に響き渡ってただろうからな」
パンプスを脱いでスリッパを履いた葉月を、食いかけの朝食が散乱する台所へ誘う。
「……何か、焦げ臭くない?」
「ああ、トースターのせいだろ。ゴメンな、ほんとにさっき起きたとこだったから」
「いいよ、そんなの。こっちがいきなり来たんだから。気にしないで」
葉月はそう言って明るく笑うと、羽織っていたカシミヤコートを脱いだ。
「ハンガー借りられる?」
「ああ、勿論……っていうか、そのワンピ」
「うん、着てきたの。……どう?」
はにかんだような笑顔を浮かべて、葉月はチラッと俺の顔を見た。
均整の取れた葉月の体を包んでいたのは、あの時俺が買ったあのワンピースだ。ふんわりした袖も、胸元から広がるデザインも、ツイードという少し重めな素材感も、華美すぎずかといって地味すぎず、葉月のよさを十二分に引き出しているように感じられた。さすがは店員さん。
「……いいんじゃない?」
「なにそれ。もうちょっと言い方ないの?」
苦笑しつつ、葉月は俺の向かいに腰を下ろした。
来客用カップにコーヒーを注ぎつつ、ちらりとそちらに視線を送る。
いつも座っていた、葉月の定位置。
そこに葉月がいる。
何とも温かい思いを感じつつ、それでいてキリッと張り詰めた緊張感に、知らず肩に力が入ってしまう。
受け皿にコーヒーが零れてしまった方を自分の前に置き、きちんと注げた方を勧めると、葉月は小さく頭を下げてそれを手元に引き寄せた。
空のサーバーを流しにおいて腰を下ろすと、葉月はテーブルに置かれている冷めたトーストを見て申し訳なさそうに笑った。
「ゴメンね。ほんとに食べてる途中だったんだ」
「あ、ああ。別に構わねえよ」
「続き、食べてていいからね」
「そうか? じゃあ、遠慮無く」
冷めて固くなったトーストにかじりつく俺を、葉月はじっと見つめているようだった。
「……ちゃんと、一人でも朝食とか、食べてたんだ」
「え? ああ。まあ、適当に」
「夕食も、作ってるの?」
「……そうだな、最近は」
「洗濯は?」
「二,三日にいっぺん、洗濯機回してる」
「夜干し?」
「そう。そんで、天気のいい時は外に出す」
「掃除は?」
「掃除は……あんましてねえかも。一週間にいっぺん、……かな」
ほんとはもうちょっと間が空いているが。
「そうなんだ……」
葉月はどこか遠くを見つめるような目つきで呟くと、コーヒーをほんの少しだけ飲んで、それから改まったように顔を上げ、ワントーン明るい声でこう言った。
「思ったより、ちゃんと一人暮らししてびっくりした」
「そうか?」
俺がパンを飲み下しながら適当に相づちをうつと、葉月は曖昧な笑みを浮かべながら少しだけ目線を落として黙り込んだ。
案外落ち着いて話が進んでいることに安堵したのだろう、強ばっていた肩の辺りが少し柔らかくなってきたのを感じながら、葉月の長い睫毛をおかずにちびちびコーヒーを啜る。
すると葉月は、どこか遠慮がちに口を開くと、幾分小さな声でこんなことを聞いてきた。
「……お水とかも、ちゃんとあげててくれた?」
「え?」
意味が分からなかった。
「お水って?」
何気なく聞き返したその刹那、葉月の表情が明らかにそれと分かるほど凍りついた。
――え? 何で?
はっきり言って慌てた。一体何のことなのかさっぱり分からない。自分は、何か余程大事なことを忘れているんだろうか?
猛スピードで記憶層を検索するも、ヒットする項目は皆無だった。
「うち、水やらなきゃならねえような鉢とか、……あったっけ?」
やむを得ず聞き返した俺の問いにも無反応なまま、葉月は固い表情で俯いた。
一体何のことだろう。重ねて聞いてみようかとも思ったが、目線を落としたまま黙り込む葉月の体から鋭い拒否オーラが放出されているのを感じ、その件についてはこれ以上の追求を諦めた俺は、みるみるうちに凍ってきた空気を溶かすべく、新たな話題を提供しようと試みる。
だが、俺は余程焦っていたらしい。
「お母さん、何か言っていた?」
俯いている葉月の表情が、より一層硬化した。
ヤバい。余計空気が凍る話題を提供しちまった。
「……早く、忘れろって」
数刻の間の後、蚊の鳴くような声で葉月は呟いた。
だろうな。
聞かずもがなの質問を怒濤のように後悔しつつ、内心の動揺を隠すべく重ねて余計な質問をしてしまう。
「お前も、そう思ってる?」
「え……」
目線を落としたまま大きく見開かれた葉月の目に、僅かな侮蔑の色が浮かんだのを俺は見逃さなかった。
「……それ、聞きたいのはあたしの方だし」
絞り出すように呟いて、上目遣いに睨み付けてくる。
その視線に反応して、こめかみの辺りがピクッと震えた。
いかんいかん、落ち着け。
「実家にいる間、地獄だった。毎日毎日、あんな結婚するべきじゃなかったとか、どうしてあんな男を選んだとか、お前は男を見る目が無いだとか、あたしの顔見ればその話ばっかりで。あたしだってある意味後悔してなかった訳じゃないけど、そんなこと何回も言われるこっちの身にもなって欲しいって言うのよ。最悪だった」
こめかみが活きのいい魚よろしくピクピクのたうつ。
だから、落ち着けっての、俺。
作品名:そこにあいつはいた。 作家名:だいたさん