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そこにあいつはいた。

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 連絡したところで、あいつは諦めているかもしれない。
 というより、怒っているかもしれない。
 俺からの電話なんかとらないかもしれない。
 着信した途端、電源切られるかもしれない。

 逃げる女の後ろをしつこく追いかけて、スカートの裾を掴んで泣きながら懇願する中年男のイメージが頭を過ぎる。

 情けない。
 みっともない。
 恥ずかしい。 

 やっぱりやめようか。

 マイナスの思考が膨れあがり、携帯から目線を逸らしかけた時。
 突如、天井の右隅で、何かが弾ける力強い音が一回、薄暗い空気を切り裂いて鋭く響き渡ったのだ。
 心臓が縮み上がるくらいドキッとして、慌ててぐるりと天井を見渡してみたが、蜘蛛の巣と埃にまみれたアールデコ調シャンデリアもどき以外は何も見えない。

――神無?

 あの木材が軋んだような鋭い音。心霊現象の一つにラップ音とかラップ現象と呼ばれるものがあると、確か心霊関係の特番か何かで言っていたような気がする。

『それまでは、ちょっとした心霊現象は続くかも知れないけど』

 ダイニングテーブルの端に紅葉のような両手をかけ、鼻から上だけ覗かせながら立ち上る湯気を見送る神無の姿がありありと浮かんできて、俺は気管を圧迫する喉の強ばりを慌てて飲み下しながら、携帯に目線を戻し再びボタンに指をかけた。
 その途端、手にしていた携帯がブルブルと震えだし、脳天気な着メロを奏で始めたので、かなり動揺して危うく携帯を取り落とすところだった。
 慌てて通話ボタンを押し、相手を確かめる間もなく幾分上ずった声で答える。
「はい」
『もしもし……健一?』
 え?
『もしもし』
「あ、……はい、そうですが」
『葉月だけど』
 葉月?
 口を半開きにして、煤けた土壁を見つめたまま、数刻完全に思考が停止する。
『……もしもし?』
「あ、ああ、はい」
『もしかして、寝てた?』
「え? ……ああ、いや、大丈夫。さっき起きたとこ」
『突然電話して、……やっぱまずかったかな』
「いや、別にそんなこと……」
『今、大丈夫?』
「ああ」
 少しずつ回ってきた思考をフル回転して言うべき言葉を模索するも、出てくるのは事務的な短い返答のみだ。
『メール……見てくれた?』
「ああ」
『返事、くれなかったね』
「ああ」
『……どうして?』
 先刻用意していた言い訳を口にしようとしたが、その言葉は何故か喉の奥に引っかかったまま出てこない。
 逡巡した挙げ句口を突いて出たのは、結局この言葉だけだった。
「……ゴメン」
 電話の向こうの葉月は、数刻そのまま黙り込んでいたが、やがて微かな吐息とともに小さな声で呟いた。
『やっぱり、……そうだよね。今更話し合いも何もないよね』
「そうじゃない」
『え?』
 原因はよく分からないが、突然頭のスイッチがオンになった。間髪を入れず言葉を継ぐ。
「ゴメンっていうのは、五日も返事をしないで悪かったってことだ。誤解しないで欲しい」
『……え?』
「今、返事をしようとしてかけたら話し中だったから」
『え、島田先生から連絡があって、それで……』
 受話器の向こうで、葉月は寸刻黙り込んでから、遠慮がちに口を開いた。
『え、じゃあ、返事って……』
「会いたい」
 送話口を掠める葉月の呼吸音だけが、やけに明瞭に鼓膜を刺激する。
 何かリアクションが欲しかった俺は、念を押すように詳しく言い直してみた。
「会って、話し合いたい」
 だが、葉月からのリアクションはない。
 ただ、震えているような呼吸音だけが、微かに送話口を掠めて流れていく。
 何か言おうと思ったが、突然のスイッチオンでヒートアップ寸前だった俺の脳は、それ以上の言葉を紡ぎ出せずにあえなく機能停止に陥った。
 どのくらい時間が経っただろうか。
 送話口から、葉月の、掠れた小さな声が響いてきた。
『実は、もうそこまで来てるの』
「……え?」
『今、改札出たところ』
 返事をしようと思ったが、機能停止の脳からは何も指令が届かない。
 やっとの事で返したのは、我ながら間抜けな言葉だった。
「俺……寝間着だよ」
 葉月は、電話の向こうでくすっと笑ったようだった。
『いいよ、別に。見慣れてるから』
 そうして、付き合っている頃よく聞いた、あのはにかんだような甘い声でこう言う。
『……いや?』
「そんなことない」
 つられて俺も、あの頃みたいな気持ちになって答えてみる。
「待ってるから」