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そこにあいつはいた。

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其の二十三.会いたい。


 目覚めたら、頭痛が嘘のように消えていた。
 朝なのだろうか、雨戸の隙間から明るい光が漏れている。
 丸テーブルに突っ伏していた上半身を起こすと、ヘンな姿勢で眠っていたせいだろう、体の節々がギシギシと軋んだ。
 ゆっくりと首を巡らせて、壁に掛けられているカレンダーに目を向ける。 
 新聞屋からもらった、実用性最大限重視でファッション性最大限軽視カレンダーの一番下にある、今日の日付。

 十月三十一日、土曜日。

 俺とあいつの、最終期限。

☆☆☆

 居間を皮切りに、三畳のつなぎ間、それから階段を上って二階寝室の雨戸を開け放つと、曇り空から注ぐ控えめな明るさが古びた家中に精一杯満ちる。
 ちらりと後ろに目線を走らせると、白く煤けた押し入れの襖が五センチメートルくらい開いていて、隙間から布団の端切れが少しだけ見えていた。
 吸い寄せられるように押し入れ前に立ち、そっと襖を開けてみる。
 弱々しい朝の光に照らし出された押し入れ内部にあるのは、薄い敷き布団と、そば殻枕と、隅に押しつけられたようになっている客用の掛け布団と、その間から少しだけ顔を覗かせているつるりとした青い物。
 何かと思って手に取ってみると、それは温まってすっかり柔らかくなったアイスノンだった。
 数刻動きを止めて、半透明のゲル状物質が詰まっているその青い袋を見つめる。
 生温かいアイスノン。
 からっぽの押し入れ。
 感傷に浸りかけたその時、昨日から何も食っておらんと腹の虫が激しく主張し始めた。
 間断なくさえずる腹をさすりつつ、俺は押し入れの襖を閉めると、アイスノン片手に階段を下りた。

☆☆☆ 
 
 真新しいコーヒーメーカーに水を入れようとサーバーを手にした俺の目に、その奥にある三角空間が映り込んだ。
 何となく作業の手を止めて、空間の奥を覗き見てみる。
 墨色に沈んだ三角空間には、神無が出入りしているうちに押しつけられてしまったのだろう、壁際ギリギリに壊れたコーヒーメーカーが見えるだけだ。
 鼻でため息をつきつつ水を注いで粉を量り、スイッチを入れてパンを焼く。
 バターをテーブルに出したとき、テーブルの隅にちんまりと置かれている封書が目に留まった。
 昨日は結局、タンスから出しただけで中身に目を通すことすらできなかったこの書類を、今日は漏れなく記入して、役所に提出するところまでやらなければならない。こうした書類に関しては、確か土日も受け付けているはず。もし受け付けていなければ、その旨葉月の実家に伝える必要もある。それだけはできれば避けたいところなのだが。
 胸を締め上げてくる圧迫感に耐えきれず、顔を覆った指の隙間から肺にめいっぱい酸素を取り込み、重苦しさとともに一気に吐き出す。
 これが現実(リアル)。
 俺が向かい合うべき現実。
 もう一度ゆっくりと吐き出した息は、微かに震えている気がした。
 テーブルに肘を突いたまま、顔を覆っている指の間から見るともなくコーヒーメーカーを見ていると、ちょうどコーヒーができあがったらしく、コポコポと軽い音が響いて白い湯気が立ち上った。
 サーバーを手に取ろうと立ち上がった俺の目に、充電器に繋がれ、コーヒーメーカー脇に無造作に投げ出されている携帯電話が映り込む。
 同時に、真っ赤に腫れ上がった右手を押さえながら、どこか申し訳なさそうな表情を浮かべて立ち尽くす飯田の姿が脳裏を過ぎった。

――手、大丈夫だったかな。

 俺のこと心配して、仕事をほっぽり出して俺の家に駆けつけて、勿論頼んじゃいないけど、危険を顧みず除霊をし、はては怪我までして、それなのに最後は追い出されて。
 よく考えたら、申し訳ないことこの上ない。
 直接話すのは何となく気が引けるし、休みの日だからあいつだって家族といろいろあるだろうし、でも昨日の礼くらいは言っておかないと社会人として、というか人間としてまずい気がするから、せめてメールだけでもしておこうかと一週間ぶりに携帯の電源を入れた。

――あれ?

 明るく光り出した画面上の隅っこに、遠慮がちに表示されている手紙のマーク。
 メールだ。
 誰だろう。はっきり言って携帯で連絡取り合うような友だちはいないし、主に使用しているのはパソコンメールだ。今は取り急ぎ礼が言いたかったから携帯を使おうかと思っただけで、仕事上の連絡はパソコンのフリーメールに入るはず。
 思考回路を掠めたある予感が脈拍を一気に上昇させ、しっとりと汗ばんでくる指で慌ててボタンを操作する。
 着信メール一覧に表示された、見覚えのあるアドレス。

 あいつだ。

 すぐさま開こうと動かしかけた指の動きが、メールの題名を見て一瞬止まる。
『昨日は失礼しました』

――昨日?

 慌てて確認した送信日は、十月二十六日。
 息を詰めてメールを開き、瞬きを停止して画面に見入る。

『昨日は突然おじゃましてごめんなさい。
 お陰様で、結婚式無事終了しました。
 いただいたワンピ、あのお店の新作だよね。さっそく着ていきました。
 結婚式があるって知ってたのかと思うくらい、すごくタイムリーでびっくりしました。
 そのせいだか何だか知らないけど、式の最中、自分たちの式のこととか、一緒に買い物行った時のこととか、健一に言われた言葉とか、いろんなこと思い出しちゃって、泣けてきて困りました。

 お前はそれでいいのかよって、あたしが健一にずっと聞きたかったことだったから、あの時は何で今更って思ったけど。
 あたしの勝手な思い違いかも知れないけど。
 もし万が一健一の中に、それじゃいけないって思いがほんの一ミリグラムでもあるんだとしたら、
 可能性が残されているんだとしたら、
 三十一日までにもう一度だけ、話し合う機会が欲しいです。
 メールでも電話でもいいので、連絡をください。  葉月』

 頭のてっぺんから勢いよく血の気がひいていく音が聞こえた。気がした。
 携帯を持つ右手が、わなわなと震えだして止まらない。

 あいつが、連絡を取りたがっていた?
 それなのに、俺は五日間にわたって無視し続けた?
 ……どういうことだよ、それ!

 携帯をタンスの引き出しに封印して現実から目を背け続けていた自分の、ヘタレな精神が招いた結果である。甘んじて受け止めねばならないことは分かっていたし、いつもの自分ならもうダメだと諦めていただろう。だが、気がつくと俺の指は、葉月の携帯番号を超速でプッシュしていた。

 理由なんかなんだっていい。
 嘘をついたっていい。
 五日間迷った末、今日電話した、とでも言えばいい。
 携帯が壊れていたと言ったっていい。
 とにかくこのチャンスを、みすみす見逃す訳にはいかない。
 神無が与えてくれた、このチャンスを。

 番号を押し、携帯を耳に当て、コールが始まるのをじっと待つ。
 プツッと切り替わって、着信コールが流れ始める。
 ……と、思いきや、流れてきたのは話し中の「ツー、ツー」という音。
 何だか勢いをそがれて、受話器が置かれたマークを押しながら、小さく息をついた。
 一拍おいたことで、今度は何ともいいようのない不安が胸の奥からこみ上げてくる。