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そこにあいつはいた。

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 飯田の上ずった声が微かに俺の耳朶を捉えたが、そんなことはもうどうでもよかった。うずくまる神無に覆い被さり、夢中でその小さな体を抱え込む。
 飯田は切羽詰まったような声で、新たな呪を唱えだした。
「ケンバイ ケンバイ ソワカ、ケンバイ ケンバイ ソワカ……」
 腕の中の神無が、声にならない叫びを上げ、その身をよじる。
「もういい! もういいよ、飯田!」
 ただもう無我夢中で儚くか細い体を抱きかかえ、俺は叫んだ。
「俺は確かに逃げてる。リアルから逃げて、こいつに依存してる。でも、悪いのは俺なんだ。こいつは、何にも悪くない!」
「ケンバイ ケンバイ ソワカ!」
 飯田の呪が、薄暗い台所いっぱいに反響した瞬間。 
 抱き留めていた神無の体が、まるで近づけた磁石の同極同士が反発し遭うかの如く弾き返され、壁に叩きつけられた。
「神無!」
 慌てて側に寄ろうとした俺も、凄まじい反発力に弾き返されて背中をドアに強かに打ち付け、あまりの痛みに一瞬息が止まる。
 神無は壁際に押しつけられながら、震える小さな手を俺の方に差し伸べた。
【寒イ……】
「神無ぁ!」
 その手を掴もうと、俺も必死で右手を伸ばす。
 互いの指先が触れ合うまで、あと数センチメートルという時。
「ケンバイ ケンバイ ソワカ!」
 飯田の呪が朗々と響き渡ったその刹那、どこから湧いて出たのだろう? 乳白色の靄が、手を差し伸べる神無を瞬く間に包み込んだ。
 震える小さな指先も、縋るように俺を見つめる潤んだ目も、渦巻く靄の向こうにぼやけ、白く霞んで、階段下の暗い空気に溶けるようになじみ、徐々に薄らぎ、やがてすっかり見えなくなった。
 暗く湿った台所を、再び静寂が包み込む。
「神無……」  
 一気に体中の力が抜けて、俺は階段下の空間にへたり込んだ。
「完全には……消えていないかも知れない」
 ゴールした直後のマラソン選手のような息づかいをしながら、飯田が呟いた。
「肝心なとこで、草薙さんが飛び出してきたから……でも、何とか結界は張って、エネルギーを取られないような措置だけは施したから、二,三日もすれば完全に消滅すると思う。それまで、ちょっとした心霊現象は続くかも知れないけど」
 ゆるゆると顔を上げて飯田を仰ぎ見る。
 飯田は肩で息をしながら、汗ばんだ額に前髪を張り付かせ、傍目にもはっきり分かるくらい震える右手を左手で覆っていた。まるで火傷でもしたかのように真っ赤に腫れ上がっているのが、薄暗い中でもはっきり分かる。
「飯田、その手……」
「あ、ああ。大丈夫だよ」
 飯田はどこか困ったような、悲しげな笑みを浮かべたが、すぐに心配そうな表情に戻って俺を見た。
「それより、草薙さんこそ大丈夫?」
 何とも答えにくかったので、俺は目線を逸らして黙り込んだ。
 かなり高い位置から俺を見下ろしながら、飯田は言いにくそうに口を開いた。
「少し、辛いかも知れないけど……あんな状態を続けている訳にはいかなかったんだよ。あのままだったら、多分一週間持つか持たないかだったと思う。無理矢理こんなことして、草薙さんにはほんと申し訳なかったけど、でも僕は、草薙さんに死んで欲しくなかったから……」
「分かってるよ」
 堪らず、飯田の言葉を遮った。
「分かってる。お前の気持ちも、課のみんなの気持ちも。ありがたいと思ってる。俺みたいなののこと親身になって考えてくれて、俺は感謝しなくちゃいけないってことも、分かってる」
「別に、感謝なんて……」
「俺が今までリアルから逃げて、あんな化け物に縋ってたことも分かってる。覚悟決めて決着つけなきゃいけないことも、分かってる。分かってるし、つける。……今日は三十日だろ、つけなきゃいけないよな。分かってる。分かってるけど……」
 ゆるゆると首を巡らせ、何とも言い難い表情を浮かべながら俺を見下ろす骨格標本男を振り仰ぐ。
「申し訳ねえけど、少しだけ、そっとしておいてもらえねえか。お前怪我してるみたいだし、ほんとはその手当てとかしてやるべきなんだろうけど……ゴメン、今、それだけの精神的余裕は残ってねえ気がする」
 やっとのことで言葉を絞り出し、頭を抱えてうずくまる。
「頼む、……一人にしてくれねえか」
「……分かった」
 飯田は頷いたようだった。
 静かに台所を出て行く気配と、廊下を歩く気配、そして玄関扉が開き、閉まる音が小さく響く。
 辛うじて鼓膜に届いたその音も、情報として処理されることなく脳の片隅に追いやられて消えた。
 脳にも体にも活動を拒否された俺は、薄暗く淀んだ台所の空気が背中に降り積もるのを感じながら、冷たい板の間の上でじっと丸まっている他なかった。