そこにあいつはいた。
其の二十二.こいつは、何にも悪くない!
そこに立っていたのは明らかに神無だったが、いつもの神無ではなかった。
その姿は、一番最初に押し入れで姿を見せた時と同じ……いや、それよりもう少し大人びているかもしれない、二十才前後のうら若い女性の姿だった。
彼女はあの時のような全裸ではなく、神無のものと同じワンピースを着ていた。不思議なことに、大人の体型に合わせてワンピースも大人サイズになっている。ふんわりした膝丈スカートの裾からはすらりとした足が伸び、レースのあしらわれた胸もとはその下にある膨らみに押し広げられ、合わせ目が一部はち切れんばかりに引き伸ばされている。
何故だかその顔に見覚えがあるような気がして目を凝らすと、神無は悲しげな表情で俺の視線を受け止めながら、サラサラの真っ直ぐな黒髪を揺らして少しだけ首を傾けた。
「……凄いよね」
飯田が、独り言のように呟く。
「呪が中途半端になっちゃって反動が出やすかったのは確かだけど、それにしたって僕は数珠をしてたんだから、エネルギー取ろうとしても普通取れない筈なのに」
その言葉から推察するに、神無は飯田のエネルギーを使って大人の姿になったらしい。
さすがは飯田、俺なんかとはもともと持っているエネルギーの桁が違うのだろう。神無を急激に成長させるほどのエネルギーを取られて尚、普段通り振る舞えるだけの体力が残っているようだ。
「でも、そこまでだから」
飯田は神無に向き直り、右手の人差し指と中指を立て、胸の前に構えて目を閉じると、
「臨(りん)、兵(びよう)、闘(とう)、者(しや)、皆(かい)、陳(ちん)、裂(れつ)、在(ざい)、前(ぜん)」
唱えながら、空を切り裂くが如くそれを縦横に動かし始めた。
【……!】
その途端、神無が声にならない叫びを上げ、頭を抱えてうずくまる。
「神無!」
思わず駆け寄ろうと一歩踏み出した俺の行く手を遮るように、飯田の左手が差し出された。
「ここにいて、草薙さん」
ちらりと俺に鋭い視線を投げ、低い声で言い放つ。
「今、あれの側に行くのはもの凄く危険だ。追い詰められてるのが分かってるから、何をするか分からない」
「神無は危険なんかじゃ……」
「いい加減に現実を見なよ、草薙さん」
飯田はその骨格標本的顔面に、僅かに哀れみの色を滲ませた。
「こいつは妖怪。自分の欲求に忠実なだけの存在だ」
そんなことはない。
神無は優しかった。俺のことを思ってくれていた。気遣ってくれていた。
お前になんか分かる訳がない。
家庭も仕事も大過なくうまくいっていて、もうすぐ子どもも生まれる、幸せなお前なんかに。
沸き上がるその思いが口を突いて出ようとした、まさにその寸前。
うずくまる神無の体が、深紅の輝きを纏って燦然と光り輝いた。
☆☆☆
黒ずんだ紅い輝きを放ち、俺たちを上目遣いに見据えながら、神無はゆらりと立ち上がった。
「……しまった!」
飯田は口の中で呟くと、すぐさま右手を先ほどのように構え、「臨(りん)、兵(びよう)、闘(とう)、者(しや)、……」と低い声で唱え始める。
その刹那、神無の体を覆っていた輝きが一筋、目にも留まらぬ速さで飯田の右手に絡みついた。
輝きは右手の周囲をぐるりと取り巻いて、まるでプラスチックででも固めてしまったかのようにその動きを封じ込め、飯田はホラー顔を歪めて明らかな苦悶の表情を浮かべた。
咄嗟に、飯田の右手に絡みつく紅い輝きを引きはがそうと手を伸ばす。
「……!」
瞬間、あたかも感電したかのような鋭い衝撃が手のひらから一気に全身を駆け巡り、息を呑んでその手を引っ込めた。
「……これが現実だよ、草薙さん」
右手を拘束され、苦痛に顔を歪めながら、飯田は薄目を開けて俺を見た。
「自分に利があれば一見穏和に振る舞うけど、ひとたび自分の存在が脅かされれば攻撃も辞さない。こういう奴らなんだよ、妖怪ってのは」
――違う。
言いかけた言葉を喉の奥に押し込めたまま、ゆるゆると首を巡らせて神無を見る。
口の端を左右非対称に引きつらせ、両眼にギラギラと憎悪を滾らせながら、悪鬼の如き形相で飯田を睨みつけている神無。その全身からは波動の如く紅い輝きが放たれ、揺らめく影を従えながら部屋の一角を禍々しく照らし出している。
その姿に、もはやあの可愛らしい神無の面影は微塵も感じられなかった。
好奇心に瞳をキラキラ輝かせながら、俺を見上げたあの面影は。
――神無!
耐えきれず顔を背け固く目を閉じ、視界をシャットアウトする。
「臨(りん)、兵(びよう)、闘(とう)、者(しや)、皆(かい)、陳(ちん)、裂(れつ)、在(ざい)、前(ぜん)」
隣から、呪を唱える低い声が響いてきた。
目を開けてみると、飯田が拘束されていない左手を使って先ほどの動きを再開している。
「臨(りん)、兵(びよう)、闘(とう)、者(しや)、皆(かい)、陳(ちん)、裂(れつ)、在(ざい)、前(ぜん)」
一つの言葉が唱えられ飯田の手が空を切るごとに、神無の紅い輝きはその力強さを失い、薄らいで、部屋を覆っていた禍々しさが徐々に消えていく。
立位を保つことが困難になったのか壁により掛かるようにして体を支えると、神無は自分の肩を両手で抱いて、上目遣いに飯田をにらみ据えた。
次の瞬間、まるで最後のあがきのように、一筋の紅い輝きが飯田に向けて放たれる。
「裂(れつ)!」
だが、その光は飯田に届く寸前、空を切る左手の動きに、吹き消される灯火の如く消滅した。
神無は奥歯を軋ませながらその場にずるずると頽れた。
「臨(りん)、兵(びよう)、闘(とう)、者(しや)、皆(かい)、陳(ちん)、裂(れつ)、在(ざい)、前(ぜん)」
呪を唱える飯田の声に力がこもる。
骨張った横顔からは滝のような汗が噴き出し、床にボタボタと音をたてて滴り落ちる。
飯田の右手を覆っていた紅い輝きが、薄らぎ、拡散して、霞のように消滅していく。
やがて完全に自由になった右手でその動きを引き継いで、飯田が先ほどより更に力強く呪を唱え始めると、神無の周囲を覆っていた紅い輝きも一気に薄らいだ。
その時だった。
【……寒イ】
微かに脳髄を掠める、弱々しい意識。
「……神無?」
階段下に目を向けて、俺は目を見はった。
そこにうずくまっていたのは、いつもの神無だった。
俺のよく知っている、弱々しく、小さな、可愛らしい神無だった。
紅葉のような手で華奢な肩を抱き、震えながら、縋るように俺を見上げる神無の黒い大きな瞳。
戦慄が背筋を一気に駆け上がり、心臓が、血の一滴も残らぬほどきつく絞り上げられる。
「臨(りん)、兵(びよう)、闘(とう)、者(しや)、皆(かい)、陳(ちん)、裂(れつ)、在(ざい)、前(ぜん)!」
【寒イ……】
その瞳一杯に溜まった涙が、瞬きとともに薔薇色の頬を転がり落ちる。
瞬間、俺の行動に縛りをかけていた箍が弾け飛ぶ、鋭い音が聞こえた。気がした。
気がつくと、俺は飯田の脇をすり抜けて、うずくまる神無に走り寄っていた。
「草薙さん?!」
作品名:そこにあいつはいた。 作家名:だいたさん