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そこにあいつはいた。

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 形の良い眉を寄せ、何か言いかけるように唇を震わせたきり、一向にその場から動こうとしない神無の手を握ったまま、俺は窓枠を跨ぎ越してベランダに出た。
「ああ、いい天気だな」
 いかにも気持ちよさそうに眼を細めてみせてから、隣に佇む神無を見下ろす。
「ほら、駅が見えるぞ」
 神無はしばらく心配そうに俺を見上げていたが、やがて俺の指さした方向にゆるゆると顔を向けた。
「あ、電車がきたぞ。ほら、あの白と青の、動いてるだろ」
 始めは何のことだか分からない様子で眉根に皺を寄せていた神無だったが、入線してくる電車に気づいたのだろう、その大きな目がこぼれ落ちんばかりに見開かれたかと思うと、電車が駅に吸い込まれ、見えなくなってしまうまで、瞬きすら忘れてしまったかのように口を半分開けて見送っていた。
「な、見えただろ」
 弾かれたように俺を振り仰いだ神無の頬はもぎたてリンゴの如く真っ赤に染まり、その目は不必要なほどキラキラ輝いている。
「じゃあ、今度はあっち。ほら、大きな道路を、車がいっぱい走ってるのが見えるだろ」
 神無は俺の手を離し、ベランダの柵を両手で持って、柵の隙間に小さな顔をはめ込むようにして俺の指さす方を見た。
 頽れそうな体を柵に凭れかけて支えながら、そんな神無の横顔を眺める。
 頭痛は半端ないし、吐き気もするし、正直体を支えているのも辛い。
 それなのに、不思議なほど胸が温かかった。
 もはや俺の存在すら忘れたかのようにベランダからの眺めを楽しんでいる神無から視線を外し、なんとなく家の周囲を見回していた、その時だった。
 見覚えのある人物の姿が視界を横切ったような気がして、瞬きをひとつしてから、柵に凭れていた体を起こした。
 身を乗り出して家の前の道路を覗き込んだが、その人物の姿は歩き去る後ろ姿が一瞬捉えられただけで、すぐに家の陰に隠れて見えなくなってしまった。
 垣間見たその後ろ姿に何となく胸騒ぎを覚え、家の中に入ろうと窓枠に手をかけたその刹那。
 奇妙な言葉が聞こえてきた。
「阿毘羅吽欠裟婆呵(あびらうんけんそわか)……」 

――何だ?

 どこかで聞き覚えのあるその声に、首を傾げた次の瞬間。
【ギャアアアアアアッ】
 この世のものとは思えぬ神無の叫びが、俺の脳髄を貫いた。