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そこにあいつはいた。

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其の二十.休むぞ、今日。


「はい、すみません。……ええ、ありがとうございます。はい。……はい、そうします。じゃあ、申し訳ありませんが、よろしくお願いします。失礼します」
 電話を切って振り返ると、薄暗い廊下の壁際に張り付くようにして、神無が立っていた。じっと、上目遣いに俺を見ている。
「休むぞ、今日」
 無言のまま首を右に傾ける神無に、口角をにっと引き上げてみせる。
「仕事休むから、俺」
 神無はキョトンとした表情で首を傾けたまま、黙って俺を見つめていた。

 体調は最悪だ。
 まず、頭頂部を鈍器で殴られ続けているような頭痛。そして、視点を変える度脳髄を攪拌されるような酩酊感を覚え、吐き気がこみ上げてくる。肩も凝っているし、耳鳴りも酷い。何も食っていないので、体力的にも限界に近い。
 神無自身は明るいところに出ないよう気をつける素振りも見せているし、無理矢理生気を吸い取っている印象も全く受けない。だが、実際問題あれだけの実在感を持ち、体の重みも肌の感触も生きている人間のそれと殆ど変わりなく感じられるということは、それだけのエネルギーを消費しているということなのだろう。そしてエネルギーの源は、俺。体調が最悪なのも宜なるかな、だ。
 昨日は何とかなったものの、今日はとてもじゃないが満員電車で出勤し、仕事をこなすだけの気力も体力もない。勤務して以来無遅刻無欠勤の俺だったが、今日ばかりは欠勤という選択肢を採る以外方法がなかった。
 残念は残念だし、とにかく体調は最悪なのだが、不思議なことに俺の精神は奇妙なほど落ち着いていた。
「神無、トースト食うか?」
 台所に向かって歩き出しながら、ちらりと後ろを振り返って問うと、すぐ後ろをちょこちょこと小さな歩幅でついてきていた神無は、にっこり笑ってその問いに答える。
 俺も承諾代わりに少しだけ頬を引き上げて、朝とは思えないほど暗い台所に入った。

☆☆☆

 神無の食事が終わり、何とか使用済み食器を流しに運んで、洗おうと思って腕をまくるところまでやったものの、そこで断念して二階に上がり、敷きっぱなしの布団に倒れ込むように横になる。
 姿勢が変わったので、脳に届けられる血流の量が増し、拍動とともに頭部をかち割られるかと思うような頭痛が一定間隔で襲ってくる。
 目を閉じてその痛みにじっと耐えていた俺は、ふと斜め上方から視線を感じた気がして、閉じていた目を薄く開いた。
 そろそろと首を巡らせると、内股気味の小さな裸足の足と、白いレースのフリルが目に入る。
「……神無?」
 神無は動く様子もなくじっとそこに立ちつくしている。
 俺は頭痛を堪えて俯せると、半身を持ち上げて神無に顔を向けた。
「どうした?」
 神無は小さな口を更に小さくつぼめて噤み、心持ち上目遣いに俺を見ながら、右手の指で左手の指をちまちまいじっていたが、俺が声をかけると徐に歩み寄ってきて、枕元にペタンと座り込んだ。
 白いスカートが、薄暗い部屋にほんの僅かな明るさをもたらしながらふんわりとまあるく広がる。
「どうしたんだ? 神無」
 神無は指先に落としていた目線をちらりと俺に向けた。
「好きにしていていいぞ。家中の雨戸は閉めてあるから、どこにでも行ける」
 神無は相変わらずちまちまと人差し指の爪をいじっているだけで、答える気配も、動く気配も見られない。
「ここにいたいのか?」
 やはり答えはない。
 少しでも楽な体勢で休みたかった俺は、それ以上の質問を打ち切って天井に顔を向けた。
 雨戸の閉め切られた暗い部屋に降り積もる、沈黙の雪。
 時計の針が進むコチコチという音だけが、沈黙に僅かな色を添えている。
 仏壇に安置されている位牌に鈍い金色で書かれた戒名と、木彫りの小さな仏像が、黙って俺を見つめている。
 暗く淀んだ部屋の空気が、その時、カサカサという衣擦れの音とともに揺らいだ。
 呼吸だろうか、ほんの僅かな空気の流れを、頬の皮膚が敏感に感じとる。
 少しだけ首を巡らせて見上げると、視界の端に仄白いワンピースが映り込んだ。
 指先の皮をちまちまいじっていた神無は、視線に気づいたのか顔を上げて俺を見る。
 数刻互いに目線を交わしたまま動かなかったが、やがて神無はほんの少し首を右に傾けた。
 それから大きな目を糸のように細め、福々しい頬をゆっくりと引き上げると、その小さな顔いっぱいに何ともスマイリーな笑顔を咲かせる。
 神無の背後にある煤けた襖全体が、ファンシーな小花柄になったように見えた。

☆☆☆

 上空をヘリコプターが通過しているのだろう。回転翼によって振動させられた空気が、建て付けの悪い窓ガラスをビリビリと震わせる。
 枕元に座っていた神無は、その音に余程驚いたのだろう、弾かれたようにピョコンと立ち上がった。目を丸くして周囲を見回し、窓際に走り寄ると、日差しが細く漏れる雨戸の隙間に頬をくっつけて、じっと外を覗き見ている。
 俺はゆっくりと半身を起こして、窓にへばり付く神無の後ろ姿を眺めた。
 紅葉のような両手を顔の右と左にくっつけて、心持ちかがみ込むような姿勢で、雨戸の隙間にねじり込まんばかりに顔をくっつけたまま動かない。
 頭を揺らさないようにそろそろと立ち上がり、そんな神無の背後に歩み寄ると、窓のネジ鍵に手を伸ばす。
 窓枠が揺れて大きな音が響くと、神無は驚いたようにネジ鍵を回す俺の手を見て、それから首を巡らせて俺を見上げた。
 その姿を視界の端に捉えつつ窓を開けて雨戸を繰ると、すっかり高く上った太陽の光が、突き刺さんばかりの勢いで一気になだれ込んできた。
 溢れんばかりの光の洪水に、神無は驚いたように顔を背け、慌ててまだ閉まっている雨戸の影に身を潜めた。
「いいよ、神無」
 神無は怖ず怖ずと顔を上げて俺を仰ぎ見た。
「だいぶ体調良くなったから。少しくらいなら、外に出ていいよ」
 それでもまだ戸惑ったような表情で俺を見上げている神無の脇を支えて抱え上げ、ひょいとベランダに出してやる。
 神無が眩しい日差しにきつく目を瞑ったその刹那、鐘突棒で横合いから思い切り突かれたような衝撃が頭部に走り、思わず頭を抱えて息を詰めた。
 神無はそんな俺を見て表情を凍らせると、部屋に戻ろうと思ったのだろう、窓枠を跨ぎ越そうと足を伸ばした。
「いいってば、神無」
 慌てて引きつった笑みを浮かべ、神無の進路を邪魔するように立ちはだかる。
「使えって。大丈夫だよ、少しくらい使っても」
 それでもまだ躊躇うかのように俺を見ている神無に、俺は右手を差しだした。
 神無は数刻、差し出された俺の手をどこか怖々と見つめていたが、やがて意を決したかのように、恐る恐る小さな右手を差し伸べてきた。
 中空で不安定に揺れる指先が到達する前に、俺は自分からそのふくふくした手のひらを捕まえて、包み込むようにしっかりと握りしめた。
 途端に、先ほどまでの鈍痛に加え、キリで揉み込まれるような鋭い痛みがこめかみを貫く。
 何とか笑顔を見せようと頬を引き上げてみるも、絶え間なく襲い来る激しい痛みにそれは幾分歪んだものとなった。
「大丈夫だ。心配しないでいいって」