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其の十九．そんなにやつれてんの？　俺……。

　翌朝。
　ご近所の皆様が爽やかに雨戸を開け放ち、秋晴れの空から降りそそぐ朝の光を部屋いっぱいに取り入れる中、俺は開けっぱなしになっていた家中の雨戸を片っ端から閉めてまわった。
　神無を押し入れから光溢れる部屋に下ろしてやった瞬間、頭をハンマーで殴りつけられるような激痛が襲ってきたのだ。
　あまりのことに動転して神無を押し入れに戻した途端、一気に和らいだ痛みから勘案するに、どうやら神無は、明るい光の下で実体化するのにかなりのエネルギーを必要とするらしい。
　家全体を薄暗くしておけばエネルギーの消費はある程度抑えられるし、神無も自由に出入りできる。昼日中、雨戸をピッタリとたてきった家は他人から見たらかなり異様に映るのかも知れないが、目覚めた瞬間からハンマーで殴りつけられるが如き頭痛に耐えている俺に、そんなことに構っている余裕はなかった。　　
　朝とは思えないほど薄暗い台所で、神無はトースト、俺はコーヒーだけの朝食を終え、例の如く神無の涙に送られて、ラッシュ地獄にいざ出陣。
　尖ったハイヒールで親指の付け根を踏まれ、脂ぎったオヤジの禿げ頭を擦りつけられ、でっぷり太ったおばちゃんの肘鉄を食らわされながら、目指す駅にやっとの思いでたどり着いた俺は、頭痛に加えて吐き気まで催してしまったので、せっかく腹に入れた食い物が勿体ないことにならないよう暫く駅のベンチで休んでから、よろめく足を踏みしめて市庁舎に向かう。
　ようやく、目指す「秘書広報課」というプレートが見えてきた時には、涙が出るかと思った。
「おはようございまふ……」
　やっとのことで絞り出した俺の声は、弱々しく空気を震わせただけで音声にはなり得なかったようだ。
　だが、入室の気配に気づいたのか、ブルドッグ室長はいつものようにご機嫌麗しく垂れ落ちた頬を震わせて顔を上げた。
　その笑顔が、俺の姿を視界に捉えたその刹那、一瞬にして凍りつく。
「く……草薙、くん？」
　何だその疑問形。
「はい？」
「君、……一体どうしたんだ？」
「え？　どうって……」
　室長は頬を揺らして立ち上がると、驚愕に口の端を引きつらせながら俺の側に歩み寄り、自分より五センチメートルほど背が高い俺を見上げながらブルブルと頬を震わせている。
「その顔……」　
「顔？　顔が、どうかしたんですか」
「どうって……隈はできてるし、顔色は悪いし、頬はこけてるし、まるで……」
「まるで？」
「飯……」
「お、おはようございます」
　室長は何か言いかけたが、その言葉に背後から弱々しいどもり気味の挨拶が被せられ、はっと口を噤んだ。
「お、おはよう、飯田くん」
　慌てて首を伸ばして俺の背後を覗き込み、引きつった笑顔を浮かべつつ飯田同様どもり気味にそう言ってから、室長は再び真剣な表情で俺を見上げた。
「とにかく、草薙くん。体調が悪かったら言ってくれよ。くれぐれも無理しないように」
「あ、はあ……ありがとうございます」
　何だかよく分からないまま一応頭を下げてみせると、室長は軽く手を挙げて窓際の席に戻っていった。
　首を傾げつつその後ろ姿を見送っていると、背後から飯田が心配そうに声をかけてきた。
「草薙さん、おはよう。昨日は大丈夫だった？」
「え？　ああ。大丈夫だよ」
　言いながら自分の席に荷物を置こうと机の方を向いた俺は、視界の端に恐るべきものを捉えた気がして呼吸を止めた。
　恐る恐る、眼球だけを動かしてそちらを見る。
　視界の移動に伴い、唾液の糸を数本ねっとりと引きつつ大口を開け、俺を捕獲せんとばかりに指の関節を折り曲げながら胸の前に手を構え、落ちくぼんだ眼窩の奥にある血走った目を瞳孔全開の勢いで開ききった飯田の姿がゆっくりと映り込む。
　ホラー映画に出てくるゾンビそのものの恐るべき姿に、呼吸は止まり、筋肉は凍りつき、心臓が喉元まで出かかって、俺は札幌雪祭りの氷像さながらにフリーズした。
　その時入り口から、この課で唯一の女性職員、四十代半ばにして未だに独身、どっしりした体格に黒縁眼鏡がよく似合う松永さんの無愛想な声が響いてきた。
「おはようござ……」
　松永さんの不機嫌そうな挨拶が、「ござ」でぴたりと止まる。
　次の瞬間、喉から鮮血が迸るかと思うほどの凄まじい叫び声が、四階フロア全体に響き渡った。　

☆☆☆

「そんなにやつれてんの？　俺……」
「やつれてるって。半端ないよ」
　松永さんは眼鏡の鼻根を押し上げると、回転椅子に腰掛けて項垂れる俺の顔を覗き込んだ。
「一体何があったの？　あたし本気で飯田さんが細胞分裂したのかと思った」
　その言葉に、隣にいた飯田はホラー顔を困ったように歪めて笑う。
「やだなあ、松永さん。僕、ここまで凄くないって」
　凄いって。
「いや、飯田さんは取り敢えず一番なんだけど、それにしたって草薙さんだよ。だって、昨日までは確か普通の人間だったじゃない。それがここまで変わるってのはさ」
　言いながら松永さんは、手にしていたおばさんくさい小ぶりのリュックを何やらゴソゴソ探っていたが、やがて中から手鏡を取り出すと、俺に無言で差しだしてきた。
　受け取って、恐る恐る顔の前にかざしてみる。
　眼鏡の奥にある充血して落ちくぼんだ目と、その下を黒々と縁取る隈。疲れ切って張りのない肌に、剃り残しのヒゲが周囲を彩る口元は、口角が重力に引かれるまま垂れ下がっている。小さな丸い鏡面に映し出されたその顔は、俺に間違いはないのだろうけれど、俺の知っている自分の顔とはまるっきり違う、何か恐ろしげな雰囲気を漂わせていた。
「……成る程、飯田入ってるな」
「でしょ。鏡見て何とも思わなかったの？」
「いや、今日鏡の前に立ってないから」
「あのねえ……」
　呆れた様子で肩を竦める松永さんに手鏡を返した時、オカルトオーラ全開で俺を見据えていた飯田が徐に口を開いた。
「草薙さん、ちょっと来て」
「え？　でも、あと五分でミーティングだし」
　飯田の意図を何となく察している俺は、控えめに拒否ってみたりする。
「ミーティングなんかどうでもいい。とにかく来て」
　だが、飯田は吐き捨てるようにそう言うと、冷え切って骨張った手で俺の手首をむんずと掴み、有無を言わせず廊下の方に歩き始めた。
　普段のおどおどした飯田からは考えられないような強引さに戸惑いつつも、気力体力ともに低下しきっている俺は、引きずられるようにその後に続くしかなかった。

☆☆☆

「草薙さん、どういうこと？」
「どういうことっ……て、何が」
　人気もなく薄暗いトイレ脇に連れ出された俺は、ネクタイ姿のゾンビ男に詰問口調でそう問われ、恐ろしさと気まずさに思わず言葉を濁して目線を逸らした。
「昨日は、なるべくエネルギーを取られないようにするとか言ってたけど、その様子じゃ全然ダメだったみたいだね」
「え？　いや、そんなことない。神無は無理矢理エネルギー取るようなマネはしてねえから。俺が……」
「カンナ？」
「あ、いや……」
　しまった。青ざめた頬が不自然に火照り出す。
　飯田は肩を竦めて腕を組み、小さくため息をついたようだった。