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其の十八．いいよ、出てこいよ。

　ハロウィンが近いせいだろう、ショッピングセンター内はオレンジ色の装飾で溢れていた。
　空調の風に煽られてユラユラはためくカボチャを視界の上端に捉えつつ、新しいコーヒーメーカーを片手に人の少ない店内を歩きながら、俺は昼間、飯田に言われた言葉を思い返していた。
『五十万、……貸そうか』
　ホムペの更新作業の手を休め、飯田が小声でそう言ってきた時はかなり驚いた。
『な、何言ってんだよ。お前んとこだって、子ども生まれたばっかで大変だろ』
『確かに余裕なんて無いけど……僕の自由になるお金かき集めれば出せない金額じゃないし、今やっとかないと、ヤバい気がするから』
『ヤバいって、……何が』
『いや、具体的に何が見えてるって訳じゃないんだけど、……予感。結構当たるんだ、こういう予感って』
　声を潜め、心持ち俯き加減で、目の下の陰影を更に濃くしながら地を這うような声を絞り出す飯田を見ているうちに、周辺がたちまち薄暗く淀んでくるような幻覚にとらわれて、俺は思わず身震いした。
『お、脅かすなよ』
『脅かしてる訳じゃない。心配なんだよ』
　俺の反応に、飯田は困ったような笑みを浮かべた。その笑顔だけは何故だか、あまり怖い感じはしなかった。

――予感、か。

　数々のオカルト現象に遭遇してきた飯田が言うのだから、そう易々と看過できない事実を含んでいるのは確かかもしれない。
　だが、神無の無邪気な笑顔を思い浮かべた途端、そんな飯田の心配は単なる杞憂のような気がしてくるし、具体的に神無の何が危険なのかもさっぱり分からない。それを見極める意味でも、しばらく様子を見るのが最善の策なのだろうと思う。
　あれこれ考えつつぼんやりと通路を歩いていた時、どこからか聞き覚えのある着信音が響いてきてドキッとした。
　慌てて上着のポケットを探り、ズボンのポケットを探り、通路にコーヒーメーカーを置いてカバンを探り始めた時、着信音はぴたりと止んだ。
「あ、もしもし？　うん、今着いたとこ」
　振り返ると、太めの足を惜しげもなく外気に晒した茶髪の女子高生が、携帯片手に辺り構わず大声で話している。

――そういえば、電源切れたまま放置していたな、携帯。

　あの後、あいつのよこしたメールを何となく見たくなくて、電源が切れた携帯を充電もせずタンスの引き出しに放り込んだままにしていたことを思いだし、コーヒーメーカーを右手にさげて再び歩き始めながら、小さく息をついて苦笑した。
　友人らしい友人もいないし、パソコンメールを主に使っているのでその存在をすっかり忘れていた。帰ったら充電でもしておこうと思いながら、脳天気な館内放送を聞き流しつつ俺は出口へ急いだ。

☆☆☆

　戸口から首を突っ込んで、濃紺の空気に覆われた室内を覗き見て、神無の気配がないことを確認してから部屋の明かりを点ける。
　微妙に黄色っぽい白熱球の光が、薄汚れた部屋を隅々まで遠慮会釈無く照らし出す。
　その明かりの下で早速新しいコーヒーメーカーを箱から出し、古いのと取り替えて、一歩下がって眺めてみた。うん、いい感じ。
「さて、どうやって捨てんのかな」
　古いコーヒーメーカーに目を向けて、俺は首をひねった。
　家電は基本的に回収を申し込まなければならないらしいが、こんな小さなものまでそれに含まれるのかどうかいまいちよく分からない。だからといってゴミ袋に入れて出すにも抵抗がある。こういう家の細々したことは、母親が生きている頃は母親がしてくれていたし、母親が死んですぐ葉月が来て、それからは葉月が担当してくれていたから、いざ自分でやるとなると何をどうしていいものかさっぱり分からないのだ。
　微妙に情けないような思いを抱きつつ、取り敢えず古いコーヒーメーカーは階段下の三角空間に押し込めておいた。

☆☆☆

　神無が姿を現したのは、例によってゴチャゴチャの台所で、飯を炊いて、味噌汁を作って、太さがまちまちの千切りキャベツを刻んで、買ってきたコロッケを電子レンジでチンして、ソースをかけた時だった。
　突然こめかみにキリの先端をねじ込まれでもしているかのような痛みが走り、はっとして振り返った俺の視界に、薄暗い階段の上り口に佇む神無の姿が映り込む。
　煌々と電灯が灯る台所に姿を見せるのを躊躇しているらしく、扉の影から半分だけ顔を覗かせ、じっとこちらの様子を窺っている。
　眉根に深い縦皺を寄せ、胡乱な目つきでこちらを見ているその顔つきが妙におかしくて、俺は思わず笑ってしまった。
「いいよ、出てこいよ」
　神無はキョトンとした表情で首を傾げた。
「今だけ、俺のエネルギー使っていいから。食べたいんだろ？　一緒に」
　大皿に載っていたコロッケを一つ小さな皿に取り分けてやると、神無はたちまち表情を輝かせ、明かりに照らされた部屋に一歩、足を踏み入れた。
　その途端、金串に刺し貫かれたかのような激痛に襲われ、堪らず頭を抱えた俺を見て、神無は笑顔を凍りつかせ、躊躇うように踏み出しかけた足を止めた。
「いいって、大丈夫」
　慌てて顔を上げ、ひきつった笑顔を浮かべて見せると、ようやく上目遣いに俺の顔色を窺いながら、怖ず怖ずとこちらに歩み寄ってきた。
　リズミカルにこめかみを襲ってくる鋭い痛みを堪えつつ、俺は神無を椅子に座らせて、食べやすい大きさに切ったコロッケをフォークに刺して渡してやる。
　怖ず怖ずとコロッケを受け取り、ほんの少しついばむように口に入れた神無は、その目を大きく見開いて俺を勢いよく振り仰いだ。苦笑しつつ頷いてみせると、ただでさえ赤い頬を見る見るうちに紅潮させ、残りのコロッケに猛然とかぶりつく。
　口から溢れさせそうになりながら頬袋満杯で咀嚼しているその様子がおかしくて、針金で締め上げられるような痛みに襲われながらも、俺は笑っていた。

☆☆☆

　食事を終えると、神無は自分から二階に引っ込んだ。
　俺の様子を見て、あいつなりに気を遣ってくれているらしい。
　お陰で頭痛も幾分和らぎ、台所の現状復帰もどうにか終えることができた。この調子でいけば、何とか共存していけるかも知れない。僅かながら明るい見通しが持てたような気がして、俺は何となくウキウキしながら、フロを済ませ、洗濯物を干し、寝間着に着替えて歯を磨き、二階に上がって布団を敷き、振り返って押し入れの前に目を向けた。　
　暗闇に仄白く浮かび上がる襖の前で物言いたげに俺を見上げていた神無は、俺が振り向くと当然のような顔で両手をいっぱいに伸ばし、その紅葉のような手のひらを俺の眼前に突きだしてくる。
　窓から差し込む街路灯の明かりを手がかりにヒンヤリした脇下を支え、要求通り寝床にしている押入に神無を上らせてやってから、同じ高さになった目線を合わせて小さな顔をのぞき込んだ。
「今日はありがとな」
　何のことやら分からないのか、相変わらずキョトンとした表情のまま、神無はほんの少し小首を傾げた。
「今日ぐらいの感じなら、俺は大丈夫だからさ。これからはこんな感じでいこう」
　微妙に首を右に傾けたまま、神無は数刻その直向きな視線を俺の顔面に注いでいたが、やがてその目を少しだけ細め、薔薇色の頬をキュッと引き上げて、丸っこい顔いっぱいに何ともスマイリーな笑顔を浮かべた。