そこにあいつはいた。
其の十六.何もいない。
極力音をたてないように、玄関扉を開けた。
首だけを差し入れて、恐る恐る家の中を覗き見る。
墨色に染まった玄関には湿った空気が重苦しく蟠るだけで、人の気配は勿論、人以外の存在の気配もない。
つきあたりにある四畳半の居間も、セピア色に沈む畳の上に古くさいテレビが置かれている他は、何も見えない。
何もいない。
電灯のスイッチを入れると、蛍光灯の弱々しい光が二,三度点滅してからその狭苦しい部屋を四隅まで精一杯照らし出し、それで俺は少しだけ安心して台所に向かった。
☆☆☆
何とか食べられそうだったので、冷凍庫の隅っこで見つけたうどんを煮る。
沸々と沸き立つ鍋から立ち上る白い湯気が忙しく現れては消えていく様を、菜箸片手にぼんやり眺めていた俺の視界に、ふと階段の上り口が映り込む。
扉の隙間から見える薄暗く寒々しい階段下には、焦げ茶色の床に扉から伸びる濃い影が見えるだけで、その他には何もない。
階段下の三角空間もからっぽだ。
煮え上がったうどんをどんぶりに移していたら、何故だか胸苦しいような心地がしてきたので、少しだけ大きく息を吸い、鼻で小さなため息を一つ、ついた。
☆☆☆
久々に押し入れに放り込んであったちゃぶ台を引っ張り出し、居間でテレビを見ながら具のないうどんをちびちび啜る。
飯田に腕輪を借りたせいかどうかは分からないが、午前中あれほど酷かった頭痛もだいぶ治まってきていたので、ものの味が多少なりとも感じられるのが嬉しい。
古くさいアナログテレビの中では、若いお笑い芸人がカップルにテンション高く話しかけている。
『そうですかぁ、先週結婚式だったんですかぁ、おめでとうございますぅ。え、でも、奥さんすっかりお腹大きいですけど』
『え、その、できちゃった婚なんで……』
『あぁあ、できちゃった婚! そうなんですかぁ、それはどうも、おめでとうございますぅ。喜び二倍って感じでいいですねえ。俺もそういう相手ほしいくらいで……』
何かむかついたから、チャンネルを変えた。
私生活まで四角四面で真面目そうな、今時かえって珍しい七三分けの中年アナウンサーが、青っぽい画面の中心で淡々と今日のニュースを伝えている。そうそう、やっぱり大人はニュースだよな。
『政府の発表によりますと、人口動態統計特殊報告から見た戦後五〇年の離婚率は、最高の年と最低の年を比較すると四.六倍、人口千人当たりでは二.二倍に伸びていることが分かり……』
即座にチャンネルを変える。
ていうか、ニュースなんて頭の疲れるもの、リラックスタイムに相応しくねえし。こういう時はやっぱりドラマ。話題作りにもなるし。
変えた途端目に飛び込んできたのは、部屋を走り出ようとした女が、追ってきた男に腕を掴まれて引き戻されている場面だった。
『離してよ! あなたと結婚して、いいことなんて何一つ無かった! もう我慢できないの!』
『ちょっと待てよ! だからっていきなり出て行くことは無いだろ?』
『もうこれ以上あなたとは暮らせない。離婚届は後日郵送するわ!』
『離婚って……落ち着けよ、美菜』
『離して! 離してったら!』
手を振りほどこうとする女を男はいきなり組み伏せると、懐からナイフを取りだし、それを頭上高く振りかざして……。
スイッチを切った。
プツッという間の抜けた音ともに画面は黒ずみ、部屋には一気に静寂が押し寄せる。
何故だかどっと疲れが出て、持っていた箸をちゃぶ台に放り出し、胡座をかいた足の上に両手を置いて、腹の底に堪っていた空気を勢いよく吐き出した。
軽く俯いたまま、ちゃぶ台の上に目だけを向ける。
右と左に別れて転がっている、先の方だけ塗りの剥げた黒い箸。
葉月(あいつ)が俺にプレゼントしてくれた箸。
仕事仲間と会津に行ってきたからと渡された包みを開けてみると、中にはこの黒い箸の他に、朱に塗られた箸がもう一本入っていた。
『あたしの分は、健一の家に置いておいて』
あいつはちょっと恥ずかしそうに、でもどこかいたずらっぽく笑ってそう言った。
下らないことを思い出した自分に無性に腹が立って、やおらちゃぶ台の上の箸を引っ掴んで立ち上がると、部屋の片隅に置いてあったゴミ箱に憤然とそれを突っ込んだ。
踵を返し、新しい箸を取ろうと台所に行きかけて、再び足を止めて振り返り、ゴミ箱を見る。
空っぽのゴミ箱の壁面に、斜めに寄りかかっている二本の箸。
『このお箸使うと、何かおいしく感じない?』
初めて作った肉じゃがを前に、そう言って何とも幸せそうに笑ったあいつの顔が、ゴミ箱に二重写しになって浮かぶ。
結局俺は、憮然としながらも捨てた箸をゴミ箱から拾い出し、それをそのまま使って冷えたうどんの続きを食べた。
箸に罪はない。
☆☆☆
テレビがダメならパソコンだ。台所にノートパソコンを持ってきて、早速ケーブルを繋いでまずはメールチェック。
新着メール十三通、全てダイレクトメールだった。
内容を確認して要らないメールを削除しながら、ふと薄暗い台所を見回してみる。
静かだ。
信じられないくらい静かだ。
微かにパソコンと冷蔵庫のモーター音が低く響いているのみだ。
僅かに熱を持ったパソコン本体の温かみが、やけに愛おしく感じられる。
ゆるゆると、階段下の三角空間に目を向けた。
何もいない。
生命体は勿論、生命体以外の存在も確認できない。
再び目線を移し、俺の左腕に巻き付いて冷たい光を放っている、水晶の連なりに目を向ける。
帰ってきてから、結局一度も神無の姿を見てはいない。本当に十万の価値があるかどうかはともかくとして、この腕輪に何らかの効能があるのは確かなようだ。お陰で頭痛も随分楽になり、食事をしたりパソコンをしたりなんていう元気さえ出てきている訳だから、飯田には感謝しなければならないだろう。
でも。
もう一度、ぐるりと視線を巡らせる。
神無は、どうしているんだろう。
☆☆☆
洗濯が出来上がったらしく、廊下の向こうからピーピーと甲高い告知音が響いてきた。
どっこいしょと席を立ち、洗濯物をかい出して、居間に向かう。部屋干しするのに、居間の鴨居がちょうどいいのだ。
洗濯物の入ったかごとハンガーや洗濯ばさみをちゃぶ台の上に置いてから、蛍光灯の白っぽい光に照らし出された薄暗い室内に目を向ける。
誰もいない。
徐に洗濯物を一つ手に取り、皺を伸ばしてハンガーにかけ、鴨居にぶら下げて次を取る。
ワイシャツとズボンを干し終えて、次に俺が手にしたのは、黒いブリーフ。
散々時間をかけて、ようやくブリーフ一枚を干し終えて、俺を振り返った神無の至福の笑顔がブリーフと二重映しになって浮かんでくる。
顔を上げ、部屋の四隅を舐めるように視線をぐるりと一周させる。
当然のことながら、俺の他には誰もいない。
俺が一人きり。
あと六日もすれば、本当に一人きり。
壊れかけた家と、オヤジとおふくろの位牌と、誰がやっても代わり映えのしない仕事と、仕事上の形式的な知り合いだけを残して、
事実上、俺は一人きり。
作品名:そこにあいつはいた。 作家名:だいたさん