そこにあいつはいた。
突然、胸もとがきつく締め上げられ、石でも詰め込まれたかのように喉元が強ばってくる感覚に襲われて、慌ててゴクリと唾を飲み込み呼吸を整える。
それから俺は何となく、部屋の中央にぶら下がっている電気のヒモを引っ張った。
蛍光灯の無遠慮で冷たい光に代わり、なつめ球の黄色く優しい光が、静かな居間を包み込む。
残りの洗濯物はそのまま、薄暗く生温かい光の下で干した。
☆☆☆
布団を敷いて明かりを消して、それから扉が開け放たれたままの押入れに目を向ける。
平べったい夏がけと客用布団の古くさい花柄が、暗闇にぼんやりと浮かび上がって見える。
そこにはやはり、何もいない。
小さく息をついてから冷えた布団に潜り込み、俯した半身を上げて左腕に巻き付いている水晶まがいの腕輪を見やる。
確かに、頭痛は嘘のように消えている。
でも、それは本当に腕輪(これ)のおかげなのだろうか。
治るべき時期が来たから治ったってだけで、あの頭痛自体神無のせいではないかも知れない。
よくよく考えてみれば、あの時ファミレスで見せられた影だって、頭上にある電灯の加減でそう見えただけかも知れないし、飯田の話にしても、結局何一つ確証はない。確かに言えるのは、神無が人外の存在だということと、俺の体調が深酒の三日後にようやく回復した、この二点だけなのだ。
その時俺の視界の端を、何か白いものが横切った気がした。
勢いよく布団をはねとばして起き上がり、薄暗い室内にじっと目を凝らすと、墨色に塗り込められた襖の前に、何かがぼんやり白く浮かび上がって見える。
胸の底に堪っていた空気を吐き出しながら、俺は幾分掠れた声で、昨日そいつにつけてやったばかりの名を呼んだ。
「……神無」
神無は襖の前に立ち、眉根を寄せ、頬を引きつらせ、その大きな黒い瞳を精一杯見開いて、俺の顔よりやや下の辺りを瞬ぎもせず見つめていた。その姿に今朝のようなクリアさはなく、墨色の襖に溶けるようにぼうっと霞んで見える。
「……これか?」
視線の先にあった左手首を差し上げてみせると、神無は硬い表情のまま頷いた。
「これ、お化けのおじちゃんが、お前が危険だからって言って貸してくれたんだ。エネルギーを取られないようにって……」
言葉を切ると、モゾモゾと布団から抜け出して四つん這いで壁際まで進み、神無の顔を覗き込む。
腕輪との距離が縮まったせいだろうか、神無は怯えたように一歩右にずれて距離をとった。物の怪にとって恐ろしい何かがこの腕輪に施してあるのは確かなようだ。
「なあ、神無」
部屋の隅に縮こまりながら怖ず怖ずと目線を上げた神無に、ゆっくりと問いかけてみる。
「お前、本当に、危険なのか?」
神無は硬い表情のまま、少しだけ首を右に傾けた。
「俺のこと、本当に……殺そうなんて思ってるのか?」
心なしか悲しげに眉根を寄せ、もう一度小首を傾げてみせる。
「そうだよな。何のことだか分からないよな」
俺は苦笑めいた笑みを零しつつ、左腕にはめられた腕輪を外して布団の下に突っ込むと、立ち上がって軽く両手を挙げた。
「ほら、無くなったぞ」
神無は、どこかキョトンとした表情を浮かべて俺を見上げた。
「腹へっただろ? うどん少し残ってるから、食ってみるか」
俺を見上げる神無の顔が見る見るうちに明るく輝いたかと思うと、心なしかその姿が暗闇にくっきりと浮かび上がった気がした。
途端にズキズキと締め付けられ始めたこめかみを揺らさないように、できるだけそうっと足を運びながら、俺は神無とともに薄暗い階段をゆっくりと壁伝いに下りた。
作品名:そこにあいつはいた。 作家名:だいたさん