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そこにあいつはいた。

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其の二.何だ? これ……。


「はっくしゅん!」
 思い切りくしゃみをしたら、前を歩いていたOLらしき姉ちゃんに振り向かれてしまった。
 慌てて人差し指で人中を擦りつつ、視線を意味なく上空に泳がせる。
 大気圏ギリギリまできっぱりと突き抜けたスカイブルーの隅っこに、はんなりと張り付いている鰯雲。
 爽やかすぎる朝風を頬に受け、ショッピングセンター脇の遊歩道を駅へ向かいながら、昨日の出来事はやっぱり夢だったんだと俺は一人頷く。
 こんなに輪郭のはっきりした日常風景を前に、どうしてあれが現実だなどと思えるものか。
 結局あれからうとうとしただけで殆ど眠れなかった俺は、夜が明けるやいなやカーテンを開け放ち朝の光を限界まで取り込んで、あの押し入れの中をくまなく調べた。だが、ネズミのいた痕跡も、勿論ネズミ以外の生命体が存在していた痕跡も、結局何一つ発見することはできなかった。
 てなわけで、俺が出した結論。あれは夢だった。
 いい年して寝ぼけて小便ちびって何やってんだ俺。
 ふと見ると道路脇の店先、ガラスのウインドウに、片頬引きつらせながら歩く俺の姿が映ってた。
 二ヶ月間散髪していないボサボサ頭に、何のくさわいもない黒縁眼鏡。たるみの出てきた頬と顎の周囲には、剃り残しのヒゲがちょこちょこ顔を出している。くたびれたスーツに、微妙に曲がったネクタイ。アイロンもあてていないワイシャツに、煤けた通勤カバン。先日雨に当たってよれよれになった革靴からは、白い粉がふいている。
 ここまで冴えない三十男を地でいく人間も珍しいかも知れないなどと妙な矜持を抱きつつ、俺は胸一杯吸い込んだ爽やかな朝風を、生臭い口臭とブレンドしてゆっくりと吐き出しながら、乾いた頬に苦笑なんか浮かべてみたりする。

――あいつが出て行ったのも、むべなるかな、だな。

 腕時計にちらりと視線を走らせる。
 デジタル式のスポーツウオッチが示す日付表示は、十月二十日。
 予定は三十一日だから、あと十一日だ。
 あと十一日で、俺は係累を失う。

☆☆☆

 古くさい商店街を十分ほど歩くと唐突に視界が開け、一車線だった道路が二車線になり、丸っこい葉の街路樹が風にそよぐ広々とした道路脇に、首を思い切り反らして見上げなければ全体を視界に収めきれないほど高いビルが忽然と現れる。
 俺の微々たる血税を含む数十億円の公金をつぎ込んで一昨年完成したこの新市庁舎が、俺の生活資金の源、マイスイートワークプレイスだ。
 総ガラス張りの入口に設えられた自動扉をくぐり、清々しい吹き抜けを通り過ぎ、些か仰々しいほど銀色に光り輝くエレベーターで向かうは、四階。
 軽やかなチャイムの音ともに目の前に開けるのは、一階とは比べものにならないほど質素な雰囲気のエレベーターホールだ。
 狭苦しい廊下を通り抜け、「秘書広報課」と銘打たれた無味乾燥な扉を抜けて、ゴチャゴチャと机の並ぶ雑然とした部屋に入る。
「おはようございます」
 自分の机に目線を向けたまま等閑な挨拶をすると、突き当たりのデスクで書類に目を通していた室長が、たっぷりした頬をブルンと揺らして顔を上げた。
「おはよう、草薙(くさなぎ)くん」
 深いバリトンの声でゆっくりこう言うと、小さい目を糸のようにしながら垂れ落ちた頬を引き上げる。いつもながら感心するほどブルドッグの相似形。いい人なんだけど。
 営業スマイルを返しつつ机上にコンビニで買ってきたお握りと缶コーヒーを置き、パソコンを立ち上げてメールをチェックしていると、「お、おはようございます」と些かどもり気味の挨拶とともに、俺同様くたびれたワイシャツによれよれスーツの三十男、飯田達郎が、まるで骨格標本のような体をぎこちなく揺らしながら部屋に入ってきた。
「おはよ、飯田」
 左手にお握り、右手にマウスを持ち、パソコン画面から目を離さないまま言うと、隣の席にカバンを置いた動く骨格標本飯田は視界の端で曖昧に笑ったようだった。
「お、おはよう草薙さん……あれ、朝飯今から?」
「まあね。昨夜いろいろあって寝坊しちゃってさ」
「いろいろ?」
 面倒くさいので返事はせずに小さく頷いてみせると、何を勝手に想像したんだか、飯田は視界の端であろうことか哀れむような表情を浮かべやがった。
「奥さん、……」
 よからぬことを口走りそうな雰囲気を察知した俺が、引き結んだ唇と鋭い一瞥で無言のままそれを制すると、飯田は言いかけた言葉を飲み込み、四方八方に目線を泳がせてから自分のパソコンの電源を入れ、怖ず怖ずと画面上にその視線を落ち着けた。
 あまりにもおどおどしたその様子に、脳内を憐憫&惻隠コンビが占領しちゃったりなんかしたもんだから、視線はパソコン画面に向けたまま、俺は苦笑いとともに口を開いた。
「昨夜、変な夢見てさ」
「……夢?」
 俺が話しかけてきたので、飯田は皮膚の下の関節がやけにはっきり分かる手でマウスを握ったまま、少しだけほっとしたように落ちくぼんだ目をこちらに向けた。
「そ。押し入れに化けもんが潜んでる夢。いやに現実感たっぷりでさ、すんげえ怖くて、この年になって小便ちびっちゃったよ。夢で小便ちびるって、ありえねえよな。疲れてんのかなあ。」
 馬鹿な自分を嗤いながら同意を求めるように首を巡らせた俺の視線は、じっと自分を見つめる飯田の熱い眼差しとぶつかった。頬に浮かべた苦笑が完全に宙に浮いて、落ち着ける先が見つからないまま、俺の視線は中空を当て所なく往復する。
「え、……何? ひょっとして寝小便、軽蔑した?」
「そうじゃなくてさ……もう少し、詳しく聞かせてくれる?」
「詳しくって、夢の中身?」
 飯田はこくりと頷いた。
 そのあまりにも真剣な表情に些か戸惑いつつも、誰かに話して気を落ち着けたかったこともあり、俺は回転椅子に載せた自分の体をくるりと飯田の方に向け、幾分声を潜めつつ昨夜の出来事を話して聞かせた。
 飯田は俺の話を聞いている間、一度も視線を逸らさなかった。落ちくぼんだ眼窩いっぱいに血走った目を見開き、こけた頬を強ばらせて堅く唇を引き結んだまま、じっと俺を見つめている。いつもおどおどして、視線が一カ所に定まらない飯田にしてはかなり珍しいことだった。そのせいで何となく、俺の方が飯田の顔から目を逸らさざるを得なくなったりしたのだが。
「……そんで、今朝隅々まで押し入れ調べたんだけど、ネズミのいた痕跡も、地球外生命体が潜んでいた形跡も、何にもなかったって訳。」
 馬鹿げた話だろ、という気持ちを込めてちらりと上目遣いに飯田の顔を盗み見る。が、飯田は相変わらず眉間に皺なんか寄せて、俺を瞬ぎもせず見つめながら、やけに重々しく口を開いた。
「草薙さん、それって……」
「あーっ、ちょっと待てよ」
 予測済みの台詞が耳に届く寸前に、慌てて両手を振り回しつつ飯田の言葉を遮る。
「お前、オカルトに興味あるんだか何だか知らないけど、頼むから変なこと言わないでくれよ。俺は今日もあの家に帰らなきゃならねえんだし、興味本位で勝手なこと言われたらたまったもんじゃないんだからさ」
「いや、でもさ……」