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そこにあいつはいた。

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「いやもでももねえの。あれは夢。夢以外の何ものでもねえの。もうこの話題は終わり! あと十分でミーティング始まっちまうじゃねえか。俺朝飯食ってねえんだからさ、頼むよ」
 言い捨てて強引に回転椅子を回しかけた俺を飯田は困り果てたような顔で見ながら、怖ず怖ずと右手の人差し指を差しだした。
「でも、それ……」
「それ?」
 差しだされた飯田の、触れればバラバラに分解されてしまいそうな人差し指の先を目で追った俺は、マイナス四〇度の世界で瞬間冷凍されたマグロさながらに凍りついた。
 飯田の視線の先、ジャケットの袖とワイシャツの先からのぞいている俺の右手首には、何かの痕跡がくっきりと赤く残っていたのだ。
 袖口から見え隠れする、まるで紅葉を横にして巻き付けたような跡。

――何だ? これ……。

 血の気の引いた顔で手首を見つめたままフリーズしている俺に、飯田は怖ず怖ずと声をかけてきた。
「指の、跡だね」
 俺も恐る恐る視点を飯田の骨格標本的顔面に移す。
 飯田は困ったような、気の毒がっているような、何とも曖昧な笑みを浮かべながら少しだけ首を傾けた。
「見た感じ、悪いものではなさそうだけど……」
「見た感じって……お前、そういうの分かるの?」
 飯田はネジ巻き式のおもちゃのように、やけにぎこちなく頷いた。
「小さい頃から僕、霊感強くて……。いろいろついてきちゃうから、これしてるんだ。」
 そう言うと神経質そうな笑みを浮かべながら、やはりどこかぎこちなく右手をかざして見せる。
 俺はまじまじとその骨張った右手を見つめた。
 関節がくっきりと浮き出た飯田の右手首には、百円ショップで買ったようないかにも安っぽいガラス玉の腕輪が巻き付いている。
「何? それ……」
「魔除け。知り合いの祈祷師にお祓いしてもらったから、結構安くしてもらえたよ。十万でこんなに除けられるなんて思わなかった。」
「十万?!」
 あり得ない値段に、思わずそのガラスだか水晶だか分からない玉の連なりを、顔中の穴という穴を全開にしてまじまじと見つめた。
 飯田はそんな俺の視線など意にも介さず、手首の跡をためつすがめつして見ている。
「僕についてくるのは圧倒的に動物霊が多いんだけど、その跡からすると動物じゃないみたいだね。はっきり指の形になってる」
 ガサガサした喉に粘ついた唾液を送り込んで潤そうとする努力も空しく、俺の喉から紡ぎ出された声は見事に掠れて裏返っていた。
「じゃあ、一体……」
「その跡からだけじゃ、何とも……。実際その場に行けば分かるかも知れないけど」
 飯田が落ちくぼんだ目を細めて何とも不気味な笑みを浮かべた時、ミーティング開始のチャイムが高らかに鳴り響いた。
 フリーズしている俺を置き去りにしたまま、飯田は骨張った肩を揺らしながら室長に向き直る。
 いつものようにブルドッグ室長の朝の訓辞が始まった。
 目の前に展開しているのは、まるっきりいつもどおりの、代わり映えのしない日常風景。
 だけどその時既に、俺の日常は壊れ始めていたんだ。