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そこにあいつはいた。

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其の十二.もう、死のうかな。


 目が覚めた時には既に、辺りは漆黒の闇に包まれていた。
 起き上がって時間を確認しようかと思ったが、暗がりで何が何だか分からない。
 というか、テーブルに伏せていた上半身を起こした途端、目眩で頭がぐらぐらして、吐き気がこみ上げてきた。気を落ち着けようと慌てて突っ伏した途端に、テーブル上に転がっていたビールの空き缶に肘があたったらしく、ガラガラとテーブル上を回転移動する音と、床に叩きつけられる鋭い音が次々に鼓膜を突き刺した。
 がらんどうの頭いっぱいに響き渡るその音に、両手で耳を覆って息を止める。
 何本飲んだのかすら、もうよく覚えていない。箱買いしてあったビールを残らず引っ張り出し、冷凍庫にまでガンガン突っ込んで冷やし、これでもかと飲んだ。最後に時計を見たのは午後三時頃だっただろうか。何時間寝てしまったんだか知らないが、とにかく気持ち悪い。フラフラする。最悪。
 
――そういえば、洗濯も布団も出しっぱなしだった。

 より最悪なことを思い出してしまって、腹の底から二酸化炭素を絞り出す。
 何をあんなに張り切っていたんだろう。別れる気満々の、あんな女が来るっていうだけで。舞い上がって、期待して、ソワソワして、……ほんと馬鹿みたいだな、俺。
 自嘲的な笑みを零しつつ、ふと階段の上り口に目を向けた俺の視界に、暗闇に浮かび上がる白いワンピースが映り込んだ。
 俺は腕に頭を載せたまま、幾分暗闇に慣れてきた目でぼんやりとその姿を眺めた。
 座敷童子は階段の上り口に佇んで、扉の影からじっとこちらを見つめていた。どこか心配そうに眉根を寄せ、小さな唇をキュッと引き結んで、スカートの裾から覗く両足を少し内向きに曲げて、裸足の指先を軽く折り曲げて。
「……何見てんだよ」
 片頬を引きつらせ、嫌みたらしく笑ってみせる。
「何か言いたいことでもある訳? 見てたんだろ、昼間のこと……。何も言うなよ。一言でも余計なこと言いやがったら、即座にたたき出すからそのつもりでいろよ」  
 座敷童子は心なしか悲しげな表情を浮かべて、少しだけ首を右に傾けた。
「馬鹿だって言いたいんだろ? その通りだよ。もしかしたら話し合えるんじゃないかなんて、馬鹿な期待して、いそいそと家中片付けて、手みやげまで用意して……あ、あのワンピースあいつにくれてやったからな。どうせお前子どもの姿だし、今はそれがあるから構わないだろ。あんなもんおいといたってどうしようもないし」
 胸に蟠っていた思いが一気に警戒水位を超えたらしく、後から後から溢れ出てきて止まらない。
「それにしてもあれだよな、面の皮が厚いっていうかさ。いくら明日結婚式があるって言ったって、別れようと思ってる男が住んでる家に、物取りに来られるか? 普通。顔合わせないようにメールしたって言ったって、あの書き方じゃ曖昧すぎて分かんねえよ。会いたくねえなら、はっきりそう書けってんだよ。その時間はいないようにしてくれってさ。変な期待もたせやがって……ふざけんな!」
 勢いよく振り上げた両の拳を、力一杯古くさいダイニングテーブルに叩きつける。
 衝撃で、テーブルに載っていた空き缶が一斉に跳ね上がり、倒れ、回転しながらテーブル上を彷徨った挙げ句、力尽きたように次々床に落下した。
 ガラン、ガラガラ、ゴロゴロ、カンカラカン、と、尖った音が次々耳を突き刺してきて、耐えきれず頭を抱えて机に突っ伏す。
 
――酔っぱらって、酔いつぶれて、子ども相手にくだ巻いて、……最低だな、俺。

 何もかも自分を見放していく気がして、もうどうでもよくなってきた。
 結局、何があっても最後まで自分を見放さずにいてくれるのは、親くらいなものなのかもしれない。
 でも、その親ももうこの世にはいない。
 現時点でこの世の中に、自分という存在を気にかけてくれる者など誰一人としていやしない。
 学生時代の友人ともすっかり疎遠になった。親しくしている友達もいない。職場の人間とは、仕事以外で接点を持つこともない。多分今俺が死んでも、泣いてくれる人間など皆無なのだろうと思う。
 仕事にしたって、誰がやっても同じこと。この不況だ。空いたポストには、すぐに代わりは見つかるだろう。この家だって大した価値なんかないし、迷惑料としてあいつにくれてやっても構わない。いらないなら相続放棄すれば、遠戚の連中が適当に分けてくれるだろう。
 俺の存在なんて、本当にこの世にとって無価値なんだなとつくづく思う。
 生きてても、死んでても、誰にも何の影響も及ぼさない。
「あーあ、……もう、死のうかな」
 試しに口に出してみて、言葉の響きを確認して、それから目線を階段の上り口に向ける。
 そこには既に、座敷童子の姿はなかった。
 あんな物の怪にまで見放される自分が滑稽で、思わず自嘲的な笑みを浮かべて、もう一度テーブル上の腕に頭を埋めた、その時だった。
 幾百もの空き缶でこしらえた巨大な塔を、蹴り飛ばして突き崩した時のような激しい音が、突然二階から雪崩のように俺の鼓膜を襲ってきたのだ。
「……!」
 空洞の頭蓋を揺るがす大音量に思わず耳を塞いで呼吸を止めたが、それどころじゃないと椅子をはねとばして立ち上がる。
 頭がフラフラするとか、吐き気がするとか、そんなこと言ってる場合じゃない。多少のふらつきは気力でカバーして、段差が大きく急な階段を必死に駆け上がる。
 物音が聞こえてきたらしき寝室に駆けより、半開きになった扉を勢いよく開け放った途端、自分の目に飛び込んできた光景に唖然として、俺は目も口もぱっかりと開けたまま、数刻思考が完全に停止してしまった。
 部屋の片隅にまとめて置かれていた筈の小さな四角いゴミ箱、ティッシュケース、仕事関連の本と書類、目覚まし時計、おまけに仏壇用の大きな花瓶までもが、いったん積み上げられ、それから崩れたような格好で窓際付近一帯に散乱していた。仏壇用の花瓶は衝撃で見事に割れ、粉々になった破片が周囲に飛び散っている。
 その傍らに、座敷童子(あいつ)が丸まって転がっているのだ。
 いつぞやのエビスタイルで頭を抱えて丸まったまま、じっとして動かない。
「お、おい……大丈夫か?!」
 恐る恐る歩み寄り、肩を強めに叩いてみる。頭を打っている可能性もある。いきなり抱き起こすのは危険なのだ。
 座敷童子のリアクションは皆無だった。
「おいっ、お前、しっかりしろ!」
 名前がないので呼びかけに些か苦労しつつも、ぐったりした座敷童子に声をかけ続けていると、やがてエビがキュッと縮こまり、今度はグンと伸びたかと思うと、長い睫毛がピクピクと震え、やがてゆっくりと押し上げられた。
 取り敢えず無事に再稼働したのを確認した途端、何故だかほっとして肩の力が抜けた。
「大丈夫か?」
 自分でも何が起きたのか分からないのだろう、俺が声をかけても座敷童子はきょとんとした表情で周囲を見回しているだけだったが、やがてよろよろと上半身を起こし、俺の方に顔を向けた。
 そのこめかみには、見事なまでにぷっくりと膨らんだ巨大なたんこぶが一つ出来上がっている。