そこにあいつはいた。
葉月が首を巡らす度、軽くウエーブのかかった栗色の髪が揺れる。今も、あの美容院に通っているのだろうか。急行で三駅先にある、大学時代から行きつけだという美容院。
「洋服も、引き揚げないといけないね」
俺の視線を背中に感じたのか、コートや背広をかき分けながら、何気ない口調で葉月が言う。
「この間持って行ったのは夏用の普段着ばっかりだったから……冬になったら、厚手のコートも必要でしょ。あたし、今のところこのトレンチコートしか持って帰っていないから」
発言の意図を薄々感じた俺は、それについてはコメントを控えたまま、ボソッと口を開いた。
「今日は一体、何を取りに来たんだ?」
「明日、同僚の結婚式に出席するの。」
俺に背を向けたまま、葉月は答えた。
「式に出るのに適当な服がなくて。こっちに置いてきたかもしれないと思ったから」
ついでにコートも持って帰ろう、とかなんとか独り言を言いながら、グレーのカシミヤコートをハンガーから外し、きちんと畳んで床に置く。
それからしばらくは無言のまま、掛かっている洋服を三巡くらい見て回っていたが、お目当ての洋服が見つからなかったのか、小さくため息をついて今度は引き出しを見始めた。
思っていたことを早く実行したくて、俺は少しイライラし始めていた。
「まだ見つからないのか」
「ゴメンね。洋服は諦めたんだけど、マフラーと手袋が欲しくて。あともうちょっとで帰るから。十一時から美容院予約してるし」
「え? 美容院って、下南沢の?」
「そう。だから遅くとも十時半には出るから」
慌てて柱時計を見上げる。十時二十五分。あと五分しかいられないってことか。
「あ、あったあった」
幾分弾んだ声で言いながら、葡萄(ボルドー)色のマフラーと黒の革手袋を先ほどのコートと一緒に持ってきた袋に詰め込むと、それを片手に葉月は立ち上がった。
「おじゃましたわね」
そう言って、儀礼的に微笑む。
「悪かったわ、お休みの所」
何か言葉を返すべきだと思って口を開きかけたものの、言うべき言葉が見つからない。
黙ったまま立ち尽くしている俺を横目に、葉月は玄関へ足を向けた。そのまま数歩廊下を進んでから、ふと思い出したように口を開く。
「十月中に書類の方、よろしくね」
その言葉に、心臓を握りつぶされたような気がして、俺は数刻呼吸すら忘れた。
「……お前は、それでいいのかよ」
「え?」
振り返った葉月の顔には、あまりの意外さに当惑しているとでも言いたげな、どこかわざとらしささえ感じさせる驚きの表情が浮かんでいた。
「何で……そんなこと言うの?」
その一言で、分かった。理解した。納得した。頷いた。
何を期待してたんだ、俺。
「……何でもねえよ」
低い声で呟くと、踵を返す。見送る気も失せた。ていうか、これ以上一秒たりとも、こいつの姿なんか見ていたくなかった。
台所に消える俺の後ろ姿を、葉月がその場に立ち尽くして見送っている気配がする。何見てんだ。用済みの男の姿なんか、見る必要もないだろうに。
台所に入った俺の目に、テーブルに置かれている紙袋が映る。
俺はそれを引っ掴むと、再び踵を返して玄関へ向かった。
上がり框に腰掛けてショートブーツを履いていた葉月は、手を止め、戻ってきた俺の姿を驚いたように見上げた。
その胸もとに、強引に紙袋を押しつける。
「え? 何? これ……」
背中から追いかけてくるその声を断ち切るように早足で廊下を抜け、台所の扉を後ろ手で乱暴に締める。
扉に寄りかかり、ドアノブに手をかけたまま、息を潜めて玄関の物音に耳をそばだてた。
暫くは何の物音もしなかったが、やがてチャックを上げるような音が聞こえたあと、紙袋がガサガサいう音と、玄関扉のノブを回した音、扉が軋む音、そして、扉が静かに閉まる音が響く。
暗く湿っぽい台所の入口で、扉に寄りかかって立ち尽くしたまま、俺はテーブルの上にポツンと取り残され、僅かな光を反射して冷たく光るティーカップの縁を呆然と眺めていた。
作品名:そこにあいつはいた。 作家名:だいたさん