そこにあいつはいた。
俺の仕事は比較的定時で終わらせることができるので、俺の方が出勤は遅く、帰宅は早いことが多い。だからそれまでも、俺はできる範囲で家のことはしてきたつもりだ。表に出ている洗濯を部屋の中に入れるとか、米を研いで炊飯器に入れるとか、ゴミの日にゴミを出すとか、俺が気がつける範囲でだけど。
まるっきりやっていないわけではないと自負していただけに、あいつの指示にいらっとくることもしばしばだったし、加えて俺の中には、あいつの母親に言われた言葉がこびり付いて離れない。勢い、口論は激しさを増していった。
『このくらいやってくれたっていいでしょう。私は、食事の支度も、掃除も、洗濯だって畳んでしまうまでは全部やっているんだから』
『そんくらいどこの家の奥さんもやってるよ。当たり前だろ? だったら仕事辞めればいいだろ。俺はいつ辞めてもらったっていいんだぜ!』
『そんなこと言ったって、一馬力じゃどうしようもないでしょ?』
『そんなことないさ! 一切無駄遣いせずに慎ましく暮らしゃ暮らせないことはねえんだ。結局お前自身が服買ったり化粧品買ったり、贅沢したいから働いてるだけだろ!』
『あたしだって電話代や水道代出してるわよ。保険だって……』
『ああああそうですか。そうですね。どうせ給料は俺の方が少ねえよ。俺はあんたに食べさせてもらってるヒモですよ。こんな俺といたって幸せな生活遠いんじゃない? さっさと離婚して、新しい旦那見つければ?』
口論しているうちに俺の方がヒートアップして、罵詈雑言を浴びせかけて、あいつが無言になって、一晩経って後悔して、翌朝俺が謝るの繰り返しだった。
そんな俺だったが、住宅資金だけはこつこつと貯め続けていた。だが、地方公務員の薄給では目標の五百万はなかなか貯まらない。地道な貯め方に嫌気がさした俺は、ふと目に留まった「元本保証」を謳っている株に手を出した。
それは、もし株価が変動して価値が下がった場合でも、元本は必ず保証しますというものだった。株についてはずぶの素人だった俺も、これなら不安なく運用できるような気がした。俺はあいつには黙ったまま、貯蓄していた全額をこの元本保証の株につぎ込んだ。
そうして、あの株価大暴落が起きた。
元本保証なら大丈夫と預金を下ろしに行った俺に、証券マンは気の毒そうな笑みを浮かべながら、「一定期間」は保障付きで下ろすことはできないとのたまった。
『い、一定期間って……どの位ですか』
『三年間です』
当たり前のようにさらっとこう言って、証券マンは営業スマイル全開で笑った。
隠せれば隠し通したかった。だが、そういう嘘は何故だかすぐにばれてしまうものらしく、預金が全て凍結状態に陥ってしまったことはすぐにあいつの知るところとなった。
『どうして私に何の相談もなかったの?!』
相談できる訳がなかった。俺はいきり立って反駁するしかなかった。
『俺が稼いだ金のことだ.何でいちいちお前に相談しなきゃならねえんだ!』
『だって、あたしにも関わることでしょ。あのお金は二人で……』
『家の金は俺の金だ! どうしようと俺の勝手だろ!』
『じゃあ、預金ゼロの状態で、もし誰か入院でもしたらどうするのよ!』
『そん時はそん時だろ! まだ誰もそんな奴いないうちから心配したって始まらねえよ』
『そんな事態が起こった後じゃ遅いのよ!』
『うるせえ!』
本当に、無意識だった。
あいつの言葉を止めたい、ただその一心だった。
気がついた時には、あいつは赤く腫れた頬を左手で押さえ、床に倒れ込んだ姿勢で俺をじっと見上げていた。
唇を震わせながら俺を見つめるその目に、見る見るうちに涙がたまっていく。
翌朝、目が覚めた時にはもう、あいつの姿はなかった。
あいつがいなくなった薄暗い家の中に、アブラゼミの声だけがやけに騒々しく響き渡っていた。
作品名:そこにあいつはいた。 作家名:だいたさん