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そこにあいつはいた。

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其の八.来るなら来やがれ。


 退庁後、俺はできるだけいつも通り過ごした。
 駅前のスーパーで半額になった弁当を仕入れて七時頃帰宅し、テレビ見ながら弁当を食って、簡単にシャワーを浴びて四日分の洗濯をまわし、パソコンを立ち上げてお気に入りのサイトをチェックして、洗い上がった洗濯を干して、いつもはその後ぐだぐだとパソコンの前に居座り続けるのだが、今日は頭痛も酷いしとにかく何があっても寝てやる覚悟だったので、さっさと布団を敷いて目覚ましを仕掛けて、一瞬迷ったが電気を消して、俺は勢いよく冷えた布団に潜り込んだ。
 
――来るなら来やがれ、座敷童子野郎。

 掛け布団の端から血走った目を覗かせ、ギロリと古くさい天井を睨め回す。
 しんと静まりかえった部屋に、沈黙の雪が静かに降り積もっていく。
 こちらが攻勢に出たのを悟ったのだろうか、座敷童子が現れる気配は全くない。案外臆病なやつなんだなと鼻で笑って、俺は大きな欠伸を一つ、した。
 思いの外簡単なことだった。ちょっとこちらが強気に出れば、妖怪変化も恐れを成して出てこられやしないのだ。あんなにびくびくして馬鹿みたいだ。ヘタレだった自分を嗤いつつ、一気に脳髄を覆い始めた心地よい眠気の渦に、俺はゆったりと身を委ねた。

☆☆☆

『……できたかもしれない』
 惜しげもなく降りそそぐ秋の温かい日差しに包まれて、あいつの髪は金色に輝いて見えた。
 俺は最初その言葉の意味が分からなくて、顔中の穴を円形に押し広げたまま、数刻呆然とその金色に目を奪われていた。
『ほ、……本当に?』
 やっとのことで絞り出されたその言葉に、あいつはゆるゆると振り向いて、その口元に恥ずかしそうな笑みをたたえつつ、小さく頷いて見せた。
 それでも暫く、俺は全ての顔のパーツをコンパスで描けそうな状態でキープしたまま動けなかったが、やがて腹の底から湧いてくる訳の分からない歓喜と、ケジメをつけなければならないという覚悟と、もう後戻りはできないという不安のようなものがない交ぜになり、怒濤のように襲ってきた。
 俺はごくりと唾液を乾いた咽頭に流し込み、両頬を引き上げて笑顔を作ると、何を言えばいいのか正直よく分からないまま、やっとのことでこれだけ、言った。
『そ……そっか。なら、きちんとしないとな』 
 その言葉を聞いたあいつは、ほっとしたような、それでいてどこか不安げな、複雑な表情を浮かべて頷いた。

『呆れてものが言えないですよ』
 畳に頭を擦りつける俺の頭上を、冷たい声が通過していく。俺はい草の匂いを嗅ぎながら、ちらりと目線を上げて声の主を盗み見る。
 あいつの母親は右足はきちんと折っていたが、左足は幾分崩すように脇に出していた。膝が悪くて正座が厳しいようなことを以前聞いたことがあるような気がするが、よく覚えていない。
『まさか結婚前に不謹慎なことをするように育てていると思っていなかったんですけど……本当に、呆れました』
 高校で国語の教師をしているというあいつの母親は、校則違反した生徒を窘めるかの如く、静かに、しかし確実に上から目線で語る。
『でもね、葉月が悪いのは当然ですけど、健一さんは確か葉月より五つも年上でしょう? 葉月が誘ってきても、貴方はそれを窘めなければならない立場ではありませんか?』
 そりゃ無理だろうと、俺はい草の匂いを嗅ぎながら思う。思いはするが、その時既に三十三才だった俺は、そんなことおくびにも出さないで神妙に答える。
『お母様の仰る通りです。僕もその点は本当に申し訳なく思っています』
『お母様なんて呼ばないで』
 じゃあなんて呼べばいい。
『葉月も早くに父親を亡くして、私も仕事で忙しかったから、沢山我慢もさせたし、寂しい思いをしていたのでしょうね。だからってこんなやり方で、親を落胆させることもないと思いますけど……』
 深いため息が頭上を通過していく。
 落胆するような相手で悪うござんした。
 結局その日殆ど畳から顔を上げることができなかった俺の額には、畳の横縞がくっきりと刻まれたのだった。

 それから同じようなことが五回ほどあっただろうか。あれほど頑なだった母親も徐々に懐柔され……いや、単に諦めただけかも知れないが、とにかく晴れて結婚を許された俺は、吹く風が冷たさを増してきた十一月末、このボロ屋にあいつを迎え入れた。
『寒い……家だね』
 幾分頬を引きつらせて、あいつは家を見回した。
『悪いね。築四十年以上だから……でも、今頭金必死で貯めてるから。来年中には目標額まで絶対貯めるから、それまでちょっと我慢して』
『うん、大丈夫。寒い時は、健一とくっついてるから』
 そう言ってピッタリと体を寄せ、俺を見上げてあいつは笑った。栗色の髪から香る甘い匂いが、優しく鼻孔を擽った。

 あいつが来てから、暗くて冷たくてどうしようもなく陰気くさかった俺の家が、ぱっと華やいだ気がした。母親が死んだ後放置状態になり、乱雑で埃だらけだった部屋がきちんと整理され、玄関には小さな花が飾られ、曇っていた窓ガラスもさっぱりと汚れが落とされ光を反射してキラキラしていた。

 でも、あいつは頑張りすぎたんだと思う。

 安定期まであと少しという一月半ば、忙しい年末と正月を乗り越えて仕事が始まったある日の午後、俺の職場に、学校であいつが倒れたという連絡が入った。
 頭の中が真っ白になって、どうやってたどり着いたのかも分からないままやって来た病院のベッドで、あいつは肩を震わせて泣いていた。四ヶ月間腹の中で育まれた命は、あっけなくこの世から消えた。

 あいつの母親は案の定、俺をなじった。
『どだい無理だと思ったんです、妊娠しているのに仕事を続けるなんて……。教師って、結構肉体労働なんですよ。高校ならまだしも、葉月は小学校でしょう。子どもを抱き上げなきゃならない機会だってあるだろうし、体育だって見なきゃいけないし……』
 暗に、俺の収入が少なくて、妻子を一馬力で養えないことをなじっているということはすぐにピンと来た。
『大体、あの家は古すぎます。建て替える建て替えるって言いながら、何か具体的に動き出しているんですか? 一度行かせてもらいましたけど、私の足じゃとてもじゃないけどあの急な階段は上れません。段差も多いし、すきま風は寒いし、あんな家で子ども育てるなんてどだい無理な話ですよ』
 必死で頭金は貯めている。でも、普通のやり方じゃとてもじゃないけどそんな一気には無理だ。そこんとこ、この人は分かっているのだろうか。俺が何もやっていないと、本気で思っているのだろうか。

 幸いあいつ自身はすぐに退院できたものの、それから俺とあいつは些細なことでぶつかり合うようになった。

 快適な状態を維持するため、あいつは細々したことを俺に指示してきた。玄関に靴を何足も出しっぱなしにするなとか、仕事の書類を居間に散乱させるなとか、食べた物の後片付けくらいやってくれだとか、天気のいい日は布団を干すのを手伝えだとか。