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そこにあいつはいた。

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其の九.何でそんなとこにいる訳?


 薄墨色に染まる古ぼけた天井を見ながら、俺は額に滲んだ汗を拭った。
 ゆっくりと首を巡らせて、時計を見る。
 三時十分。十時に寝たから、どうやら五時間程度は眠れたらしいが、……最悪の夢だった。
 アブラゼミの声が、まだ耳奥で響いている気がする。
 自分の存在が覚束ない気がして、冷えた手のひらで火照った顔を覆い、その感触を確かめながら大きく息を吸って吐く。
 昼間、飯田に自分の状況を漏らしてしまったことが、余程精神的に堪えていたらしい。だが、それにしたって酷すぎる。せめて夢の中くらい、自由にのびのびとさせてくれてもよさそうなものなのに。
 閉じていた目を開けて、指の隙間から煤けた天井を透かし見ると、天井の木目がどこか素っ頓狂な表情で俺を見下ろしていた。
 あの後、葉月(あいつ)が出て行って三日も経たないうちに一通の封書が送られてきた。差出人の欄にはあいつの母親の名前が、らしくない乱雑な字でしたためられていた。
 封書の中には、短い手紙と、何か書類のようなものが入っていた。

『前略 今回の件では、私の我慢もついに限界を超えました。娘の気持ちも私と同じです。残念ながら、このたびの結婚につきましてご再考願いたく、取り急ぎ書類の方を送らせていただきます。必要事項を記入の上、最寄りの役所にご提出いただきたく、お願い申し上げます。尚、手続きは十月中にお願いいたします。十一月一日に役所に確認して手続きが成されていない場合は、弁護士を介して適切な措置を執らせていただきますことをご承知おき下さい。また、養育費その他の件に尽きましては、離婚が確定した後に改めて話し合いたいと存じます。よろしくお願い致します。 草々』

 俺は即刻、手紙を破り捨てた。
 まだ封筒の中に残っている書類は、開けてみる気もしなかった。だが、手紙を出す際に半分くらいまで封筒から引き出され露わになった書類の裏面には、黒インクで書かれた署名と、朱肉の赤がうっすらと透けて見えた。
 あいつの母親が何故十月中で期限を切ってきたかについては、よく分からない。
 まあ、多分二ヶ月もあればいい加減覚悟は決まるだろうという適当な予測に基づいているのだろう。あいつの新しい人生のためにも、宙ぶらりんな期間は短いにこしたことはないのだ。
 あれ以来あの書類は、タンスの引き出しに放り込んだまま、一度も開けて見ていない。
 自分からあちらに対して何らかのアクションを起こすつもりは一切ない。だが、もし万が一……万が一、あいつがこの件に関して再考を求めてきた場合、俺はそれに応じてやるつもりでいる。だから、あいつの母親が切ってきた期限ギリギリまで書類は提出しないつもりだ。
 たとえその可能性が、限りなくゼロに近いとしても。
 胸苦しいような感覚に襲われて、再度深く息を吸い込んで吐くと、埃っぽい空気が渇いた喉をさわさわと刺激しながら通過した。
 水でも飲んで喉を潤そうかと思い、起き上がって戸口の方に顔を向けた俺は、視界に映り込んだその姿にドキッとして動きを止めた。

 膝を抱え腕に顔を埋めた姿勢で、そこに座敷童子(あいつ)はいた。
 
 俺の視線を感じたのだろうか、あいつはサラサラしたおかっぱ頭を揺らして顔を上げ、俺を見た。
 あいつは何故か笑っていなかった。心持ち悲しげに形のよい眉を寄せ、小さな唇をきちんと噤み、つぶらなその瞳で直向きに俺を見つめている。
 昼間あれだけ腹をたてて徹底抗戦を誓った相手な訳だから、恐怖を感じないのはある意味当然なのだが、それだけではなく何故かこの時俺は、その姿にほっとしたような、気が紛れるような、不思議な感覚を得ていた。
「……そこ、どけよ」
 地を這うような低い声で不機嫌さをアピールしながら、徐に立ち上がる。
「水飲みてえんだ」
 座敷童子は黒曜石のような目で数刻瞬ぎもせず俺を見ていたが、目力(めぢから)パワー最大でにらみ返してくる俺の迫力に恐れを成したのだろう、突然、バネ仕掛けの人形さながらにピョコンと立ち上がった。
 戸口の脇に立ち、目の前を横切る俺を首を巡らせながらじっと見ているその姿は、まるっきりキューピー人形そのものだ。
 キューピーの視線を三白眼でがっちり受け止めながら部屋を出ると、薄暗い階段をゆっくり降りて台所へ行き、生ぬるい水を一杯飲んで、それからゆっくりと階段を上って部屋に戻る。
 半分開いている襖を些か乱暴に全開し大股で部屋に踏み込むと、三歩ほど入ったところで立ち止まり、中をぐるりと睨め回す。
 あいつの姿は、どこにも見えなかった。
 不機嫌オーラ全開の俺の勢いに押され、何もできずに消えたに相違ない。腹の底から沸き上がる勝利の快感に、先ほどまでの鬱々とした気分が嘘のように晴れ、俺は鼻歌でも歌いそうなくらいの勢いで掛け布団を捲ると、まだ幾分ぬくみの残る布団に潜り込んだ。
 ぬくみが残っているはずだった。
 だが、潜り込んだ瞬間足先に触れたひんやりした感覚に、爪先から一気に頭頂まで悪寒が走り抜け、思わず「ひやっ」なんて情けない声を上げて布団から飛び出した。

――何だ? 今の……。

 早鐘を打つ心臓を宥めつつ、恐る恐るめくれ上がった掛け布団を掴み、そっと捲り上げてみる。
 掛け布団の下から現れたのは、冷凍エビのような格好で丸まっている座敷童子の姿だった。
 どんなリアクションをしたらいいのかすら分からず、掛け布団を手にしたまま口を半開きにしてフリーズしている俺に、座敷童子はエビスタイルのまま首を巡らせて、何とも無邪気ににっこり笑った。
 その笑顔でようやく頭が回転し始めた俺は、ピクピク痙攣する片頬に力を込めつつ、口に出すべき言葉を最大出力で模索する。
「……あ、あのさ、何でそんなとこにいる訳?」
 座敷童子が理路整然と理由を述べるとは思っていなかったが、まずは一応決まり文句で事態の収拾を図ってみる。しかし、当然のことながら奴はノーリアクション。てか、何をそんな嬉しそうにニコニコ笑ってる訳? その布団、オヤジ臭いっすけど。
「そこ、悪いけど俺の布団な訳。頼むからどいてくんない?」
 今度はお願い口調で下手に出てみるが、奴は相も変わらずエビ姿勢のニコニコ顔を崩さない。
「あのなあ、そうやってニコニコしてりゃ可愛いとでも思ってんの? 悪いけど妖怪なんざいくらニコニコしようが子どもの格好しようが、不気味なもんは不気味なんだよ。いい加減ふざけてるとこっちもキレるぞ。夢見が悪くてむしゃくしゃして……」
【……っくし!】

――くし?

 思わず言葉を止めて見ると、座敷童子は背中をより一層丸め、人差し指で鼻なんかゴシゴシ擦っていたが、俺の目線に気づくと幾分寒そうに肩を抱き直し、それでも健気に笑顔なんか浮かべて見せた。
 その顔を見た途端、急に肩の力が抜けて、俺は腰に手を当て、些か大げさに肩を竦めてため息を一つ、ついた。