かくれもの
ページの開いた本は、伏せられているわけではなく、誰かの読みかけがそのまま置かれたような様子だった。しゃがんでその本に手を伸ばす。手に触れた感触は、やや埃っぽさを感じさせたが、先程の本のような、紙の劣化などの古めかしさは全く感じられず、寧ろ随分と新しいもののような気がした。左側一ページいっぱいに挿絵が描かれており、右側のページの文字は日本語で書かれていた。平仮名が多く、大きめの字で短い文章が書かれているそれは、絵本だった。持ち上げて見てみた表紙には、黒い髪の淋しげな表情の少女が一人小さく描かれているだけで、背景は真っ白なものであった。絵本というのは、中のイラストも大事だけれど、華とも言える表紙は、とびきりあざやかに華やかに目を引くよう描くのが一般的であったため、俺の目にその表紙は、ひどく不自然に不思議なものとして映った。その表紙を開くために、紙の端を摘んだ指は、何故だか、緊張で微かに震えていた。何に対して俺は緊張しているのか、心当たりもないまま、緩慢とした動作でページを開く。
文字を追わずに、絵だけをゆっくりと目で追っていく。何処の世界での話か知れないその物語は、ストーリーの中では、総てのものが皆、笑顔に満ちていた。空も、花も、人も、ものさえも。あらゆるものが泣きたくなるほどに、あたたかくやさしい世界で、幸せに溢れていた。
やっと、見つけた。
最後の絵まで見届けて、深く長い息を吐く。本を閉じるのと同時に、心に浮かんだ言葉はそれだった。どうしてそんな言葉が出てきたのか、自分でも判らなかったが、それ以外の言葉は出てこなかったし、どうしてだとか何に対してだとかも判らないが、それが一番しっくりとくる言葉なのだということだけは、はっきりと判った。
「さあ、かくれんぼは終わり」
何だか妙にすっきりとした気分の中、不思議とそれまでよりも明るく陽が差しているように見える、この静かな空間で、何処からかそんな優しい声が降ってくるのを聴いた気がした。
「ッ……」
びくっと揺れた自分の身体に驚き、目が覚める。跳ねた身体やどくどくと速く強く脈打つ心臓と自分の状態を把握できない、起き抜けの働きの非常に鈍い頭を押さえながら重たい身体を起こす。目を擦ろうとして、指に触れた冷たく濡れた感触に目を丸くする。涙は目尻を伝い、こめかみにまで流れ落ちたらしく、濡れたところが、朝の温度の低い空気に晒され、ひんやりと冷えていくのを感じる。眠りながら泣くなんてこと、本当にあるんだなと、感情に鈍いと思っていた自分だけに驚きを隠せなかった。案外俺は感受性の弱い人間じゃないのかもしれない、なんて調子の良いことまで考えながら、僅かに残る涙を拭う。それと同時に、無意識に啜ってしまった鼻に、本当に泣いた後みたいだと感じた。
起きた瞬間の驚きは既に収まり、ベッドから出て、コーヒーメーカーでコーヒーを淹れる準備をする。時計を見ればまだ早朝と言えるような時間であった。そんな早い時間に、澄んで少し冷えた爽やかな空気を肌に感じながら、煙草に火を点ける。深呼吸をするように思い切り紫煙を肺に入れ、煙を吐き出す。
テーブルに凭れ掛かるような体勢のまま、何故涙を流していたのかを思い返す。あんなふうに泣いてしまうほど、リアルで哀しい夢を見た記憶はない。寧ろ、直前まで見ていた筈の夢を殆ど憶えていない。
けれど、何か大切なものだった、という確かなような朧気な感覚と、白の中に黒い髪の少女、という強いクセに何処かぼやけたイメージだけは俺の中に残っていた。
真っ白な空間に黒髪の女の子だなんて、まるで俺の描こうとしている物語そのものだ。あのスケッチブックを眺めすぎたせいで、あの子が夢にまで出てきてしまったのだろうか。コーヒーが落ちるまでの間、煙草を銜え、幾度か紫煙を肺に送りながら、ぼんやりと目を閉じて瞼の裏に残るイメージを、よりはっきりとしたものにならないだろうかと思い浮かべる。しかし、イメージはイメージのままで、形を創ることはなく、曖昧な輪郭を一本の線に変えることはなかった。
そんな間に、コーヒーの芳ばしい香りが部屋に充満し、イメージ同様ぼんやりとしていた俺の頭を覚醒させる。銜えていた煙草を灰皿で揉み消し、淹れたてのコーヒーを、今度は喉へと送る。心地の良い苦みが口の中に広がり、身体もしっかりと覚醒していく。まったく、コーヒーというのは、何にも勝る目覚まし時計ではなかろうか。
じっくりと味わいながら、飲み干すと、何だか無性に外に出たい気分に駆られ、俺は顔を洗い、歯を磨いた。襟足以外は比較的短いせいで、あちこちに跳ねてしまっている髪を、ブラシで適当に整え、久々に外出できるようなジーンズとVネックの黒いTシャツにグレーのロングカーディガンを羽織り、ポケットに家の鍵と煙草とライターだけを突っ込み、財布すら持たずに、踵の潰れた汚いスニーカーを引っ掛ける。明後日出す予定のゴミ袋や靴の置かれた狭い玄関を、躓かないように、大きく跨ぐようにして通って部屋を出る。
外はいつだったか感じたような、暑くも寒くもない、ご機嫌な太陽が輝く、とても心地の良い天気だった。何処か目的地があるわけでもないため、気の向くまま足の向くまま、俺は早朝故に静寂の広がる住宅街を、何処へ向かうでもなく歩いた。
失くしてしまったスケッチブックに描いた公園の前を通り、かくれんぼをしていた子ども達のいた細い道も通った。何処かで、犬の鳴き声がするな、なんてどうでもいいことを考えながら、せっかく持ってきた煙草を珍しく吸うこともなく、嘘みたいに淡い、パステル調の蒼を湛えた空を見上げながら、ただただ歩く。
何処をどう歩いてきたのか、ふらふらとしているうちに、見慣れた道ばかりであった筈の住宅街の中で、初めて目にする路地を見つけた。何だか冒険した末に大発見をした子どものような気分で、ふらりとその路地に入ってみる。細い割に、家々の影にはなっていないらしく、明るい日が差してきている。何処の道に繋がっているんだろうかと視線を上げたすぐ先に、小さな人影を見つけ、俺は思わず足を止める。
小さな影は、すぐに少女だと判った。ふわふわとした肩ぐらいの長さの黒い髪で、ドレスのように裾の広がった淡い黄色のワンピースを着たその少女に、俺は見憶えがあった。具合でも悪いのか、身を小さくさせ、顔を俯かせているその少女に、どうしたんだと声を掛けようと止めていた足を踏み出したその時、目の前の小さな身体がパッとこちらを振り返った。その細く小さな腕には、B4サイズのスケッチブックが大事そうに抱えられていた。真正面から少女の姿を目にした瞬間、脳裏にあの白に黒のコントラストが強烈に浮かび上がる。あのイメージと、目の前の少女が一気に繋がりを持つのを強く感じた気がした。だが俺はその急激な結びつきに意識が追い付かず、ただ目の前の少女を見つめることしかできない。