かくれもの
「ゆ、め……?」
ベッドサイドに置いてある目覚まし時計で時刻を確認すると、午後六時半と何とも中途半端な数字を差している。どうやら、スケッチブックを眺めたまま眠ってしまったらしい。それにしてもおかしな夢を見た。変な時間に昼寝をすると変な夢を見るというのは本当のようだ。けれどあの夢で見た風景は、実際に目にしたのではないかというくらいにはっきりと、脳裏に焼き付いていた。花畑の真ん中に座る少女も、地と空の混じるあの美しい地平線も、今すぐ描けるほどにしっかりと憶えている。
そこまで思考したと同時に俺ははっとする。
そうだ、あの風景を彼女の物語に使えばいいじゃないか。そうだ、あれこそが彼女のための景色だ。
そうなれば善は急げだと、スケッチブックを拾おうと布団の上やベッドの周辺を見渡すが、眠る直前まで眺めていた筈のそれが何処にも見当たらなかった。何処かへ飛ばしてしまっただろうかと、床全体やベッドの下や、机の上まで探したが、スケッチブックは忽然と姿を消してしまっていた。
俺はがしがしと寝起きの頭を掻き毟った。今までにスケッチブックを失くすなんてしたことがなかった。作品についてのメモや下書きは総てスケッチブックにしていた。そのせいか、一つの作品に、一つのスケッチブック、と何となく自分の中のルールのようにして今までやってきていた。それがなくなってしまうということは、絵の下書きや小説のプロットを失くしてしまうも同然だった。
新しいスケッチブックも無い、どうしようもない状況に、込み上げるような不安感と湧き上がるような苛立ちで頭がいっぱいになる。怒っても嘆いてもスケッチブックが見つかるわけではなかったが、こんな形で中断させられるとは思っていなかったので、不機嫌さを隠すことができなかった。しかし、頭の中に降ってきたあの少女はもう俺の中で一人の人物として存在していた。そんな人物を、物語の終結という形で笑顔にさせられないまま放り出すつもりは毛頭なかった。どんなに途中で行き詰ろうと、生み出した人物を物語の最後まで導くのが、彼らを生み出した、作家である自分の義務なのだ。
俺は煙草すら吸う気になれず、荒々しい舌打ちをしつつ、つけっ放しだったためスクリーンセーバーが起動しているパソコンに向かい、記憶に残る風景を簡潔にメモ帳に記す。絵に描けない以上、言葉で残しておく外ない。
結局それ以上のことをすることも、やる気を起こすこともできず、俺は早い時間に、普段以上に侘びしく適当な夕食を摂り、雑にシャワーを浴びて床に就くことにした。夕方にぐっすりと眠った筈なのに、何故か身体は睡眠を欲していた。ベッドに入り、布団が体温と同じくらいになった頃、俺は既に意識を手放していた。
それはまさしく本の山だった。
否、ここは本当に一つの空間なんだろうかと疑うほどに高い天井に届きそうなくらい背の高い本棚が、綺麗に音の反響しそうな広い空間に詰め込まれ、整列させられている様は、山というよりも、まるで本の住宅街だった。
ここは、書庫か図書館のようだ。あちこちに、上部に仕舞われた本を取るための、梯子や踏み台が置かれている。二階を造るスペースも十分にあるのに、非合理的なのも関係なしに一つの空間で造られていた。そのせいで、壁はびっしりと本で埋められており、天井付近の僅かな部分にしか窓がなく、部屋全体は薄暗く、空気もやや埃っぽく淀んでいた。
本棚の数だけでもかなりの数が見てとれるのだから、そこに寸分の隙間なく収められている本の数は計り知れないだろう。世界中の本が集められているのではないかと錯覚を起こしてしまいそうなほどである。自分が立っている場所から判るだけでも、背表紙は、様々な言語や書体でタイトルが書かれている。そのうちの何冊かを手に取ってみる。英語、イタリア語、ドイツ語、フランス語、アラビア語、スペイン語、ギリシア語、ロシア語。自分が何となく判別がつくだけでもこれだけの数のものがあった。中には、世界的なベストセラーや日本ではお馴染みのものも見つけることができた。
もしかしたら、本当に世界中のありとあらゆる本があるのかもしれない。そう思いながらきっちりと同じ間隔で設置されている本棚の間を歩いていると、かたんと小さな物音が耳を掠めた。次いでかたかたとやはり音が聞こえてきた。誰かいるのだろうかと周りを見るけれど、同じ本棚があるばかりで他のものは見当たらない。
俺は本棚の列から抜け出ると、壁伝いに歩いてみることにした。部屋の端から見てみて初めて、本棚だけかと思われたこの部屋に、何か所か本棚が途切れたところにテーブルも置かれていることに気が付く。今いる場所から見える、一番近いテーブルへと向かって、本棚でできた細い通路を歩く。かた、かた、という物音に近付いたような気がして、早足になる。
辿り着いたテーブルは、何てことはない、少し古い木製のものだった。高い天井から差し込む薄い光で鈍い光沢を見せるそのテーブルのはす向かいに、本が一冊、無造作に置かれていた。今いる場所からは手が届かないため、回り込んでその本の前に立つ。
置かれていた本は、少し埃を被り、背表紙が日に焼け、色が褪せてはいたけれど、手触りの良い深緑の布のカバーがかけられた分厚い本だった。重たいそれを開いた中身は、虫眼鏡を使って読むのではないかと思わせるほどに細かい字がびっしりと書かれた、何かの専門書のようだった。言語も内容も、間違いなく俺の理解の範疇外であったため、薄い紙を幾つもめくることなく、その重たい蓋のような表紙を閉じた。
本から離れ、再び音の出所を探そうと、音が聞こえてきた辺りの本棚へ向かって棚と棚の間をひょいと覗いていってみるけれど、何者かの姿は一向に見当たらない。これだけ広く、たくさんの本棚がある場所である。隠れようと思えば簡単に隠れられるのだろう。隠れるつもりがなくとも、この空間から見つけ出すのは難しいだろう。まるで、かくれんぼのようである。
取り敢えず、あの本の周辺の棚の間を一つ一つ見ていると、ばさっとそれまでになかった、何かが落ちる大きな音が背後から聞こえた。俺はテーブルを挟んだ向こう側の棚へと走る。走った勢いのまま、バッと棚の隙間に顔を覗かせ立ち止まる。
確かに物音がした筈のそこには、誰の姿もなかった。
「ん?」
しかし、そこには、誰かが居た証拠とでもいうように、またしても一冊の本が開かれて床に落ちていた。さっきの音はどうやら、この本が落ちた時のものらしい。