かくれもの
次第に遠ざかって行く音に、いつの間にか詰めていた息を細長く吐き出す。どうやら階段を上がった右側へと進んでいったようだ。一歩一歩、城に足を踏み入れているのを噛み締めるようにゆっくりと上がっていくと、右手の一番手前の部屋の扉が薄く開いているのが目に入った。少女達はそこに入ったらしい。満点の星のようにきらきらと弱い光にガラスを煌めかせるシャンデリアを見上げながら、おいでと手招きでもしているように細く入口を見せる扉へと向かい、そのノブを握る。ひんやりと冷たさが手のひらへ浸み込んでくるのを感じながら引くと、ギッという時の長さを思わせる重厚な感触と音を伝え、扉は俺を中へといざなった。
入った瞬間、俺は強烈な圧迫感に襲われた。その部屋には、たくさんの高い壁があった。そう感じたのは一瞬で、その壁は幾つもの大きな本棚であることに気付く。その数は十、二十に留まらず、部屋の左右にある二階部分にまで及んでいた。中央は吹き抜けとなっており、ロビー同様に高めの天井には、美しいステンドグラスが設えてあった。一番奥に厳然と置かれているそのものが芸術品かのような机を中心に、この部屋は完全なシンメトリーだった。厳粛な空気が広がる、芸術に溢れたこの部屋は、書斎であった。
本棚の数でさえ、数えるのが億劫になるほどであるので、そこに仕舞われている本の数といったら、間違いなく膨大なものとなるだろう。手近な棚から、適当に一冊抜き出してパラパラと捲ってみるも、分厚く、カバーに繊細な装飾がされているその本は、当然とばかりに英語かラテン語かドイツ語かが、小さな文字で細かく羅列しており、到底自分の理解の及ばない内容であった。
冷たく、重い、本の並ぶ独特の威圧感に暫し圧倒されたような、満たされたような気分で、天井や二階部分を見上げているせいでゆらゆらとした覚束無い足取りで、部屋の奥へ奥へと入り込んでいくと、二階部分から、小走りの足音が入口近くの階段を駆け下りて扉を出て行くのが見えた。俺にとっては本の装飾一つや棚の古さまでもが興味の対象となるこの部屋だけれど、幼い彼女達にとっては難しい本がたくさんある、というだけの面白味のない部屋だったのか、一周したのみで次の目的地へと向かってしまったらしい。入口へと逆戻りし、またも少し開けっぱなしの扉からひょいと顔を覗かせてみると、少女達は廊下の一番奥の扉へと入り、そこから見える階段を上っていったようだった。
早く二人を追わねばという気持ちと、この美しい部屋を後にしてしまう名残惜しい気持ちとがせめぎ合い、どうするべきか迷った俺は、早足で部屋を一周してから、先へ進むことにした。
部屋を出て、廊下の一番奥の扉へと入ると、目の前に上階へ行く階段が一つと、また左右に廊下が伸び、幾つもの扉があった。相変わらず静かなそこには、物音一つ聞こえてこない。俺は、彼女達が進んでいった階段を上る。二人がその先、何処へ向かったのかは判らないが、階段は、一階分しか存在しておらず、少女達がこの階にいるのはほぼ間違いがないようだ。上がってから耳をそばだてていれば良いだろうかと考えながら、最後の段に足をかけた瞬間、目の前を二つの影が駆け足で横切っていった。その影はそのまま、真っ直ぐと廊下を進み、突き当たりを道なりに曲がって、姿を消した。首を一八〇度廻して、彼女達が来た方に目をやると、等間隔で壁につけられている燭台の揺らめく明かりが、二人が駆け抜けた余韻に微かに揺れるワインレッドのカーテンと、またしても閉まりきっていないドアを照らしていた。
先程の部屋のものよりも、重たく、堅牢な造りをしているその扉は、ノブやその周辺、鍵の辺りにアンティーク調の少し褪せた金の細かい装飾が成されている。一見、装飾の一部のように見える鍵穴も、かなりしっかりしたもので、ノブの下に二つもある。一体何の部屋だろうかと、僅かな緊張と期待に鼓動を速めながら、誰に見られているわけでもないのに、こっそりとドアを開ける。
「わ、……」
まるで美術館だった。
書斎よりもずっと広いその空間には、所狭しと大きな絵画や、骨董品が、優美な額や見事なベロアの敷物や綺麗に磨かれたガラスのケースに飾られていた。美術品の知識など全くない俺でもその品々の素晴らしさを最大限に引き出すために、すべてが絶妙なバランスで配置されて造られた空間であるだろうことは容易に想像がついた。この過去の時間を切り取って持ってきたかのような空気に、思わず息を呑む。見たことのない絵や品ばかりで、有名なものなのか価値のあるものなのかさえ判らないけれど、このコレクションルームというには些か広すぎる小さな美術館を、俺はじっくりと眺めて回った。どの品も年月や価値に関係なく、この部屋の主に大切にされているんだろう、そんな気がした。
そんな中、不意にゴーンと重く響く音が何処かから聞こえてきた。そこにある品々と同様、時を止められていたような気分でいた俺は現実へと引き戻される。いつまでもここにはいられないのだと、改めて部屋を見渡す。
冷えた空気の中にいた筈なのに、何だか温かい気分になりながら、その部屋を出ようとした時、少女達の話し声が近付いてきたため、ノブにかけた手を握った形のまま静止させ、耳をドアにつけた。
「あのお部屋はね、このお城の中で一番高い場所なの」
「遠くまで見えたものね。階段も、とても長かったわ」
くすくすと可愛らしい笑い声を漏らしながら、少女達は俺が先程上ってきた階段を下りていった。
かつんかつんと足音を響かせながら、廊下を真っ直ぐ進み、突き当たりを曲がると、そこにはこの階に上ってきたものよりも幅が狭く、段差の大きな螺旋階段が、中途半端に隠されたように、ぽつんと造られていた。
ひやりと冷たい石壁に手をつきながら、階段を上っていくけれど、一向に終わりが見えず、少女達の会話がふと頭をよぎる。この城で一番高い場所、長い階段、彼女達はそう言っていた。恐らくこの階段のことなのだろう。そして、一番高い場所というのは、庭で城を見上げた時にあった、古い鐘がある塔のことなのだろう。
眠り姫が錘で指を刺してしまった塔によく似たところへ、今自分は向かっているのだと思うと、どうしようもない好奇心でいっぱいになる。最高層への様々な想像を馳せながら上る足は、疲れで少しスピードが落ちるけれど、それでも確実に一段一段を上がっていき、薄暗かった螺旋の空間に、微かに光が差してくる。それに元気づけられたのか、足取りは元の速さ、もしかしたらそれ以上になり、段々と強くなる光へと近付いていく。遂に上り詰めた先には、それまで目にしてきたこの城のどの部屋よりも飾り気のない、少しだけ埃で薄汚れた小さめの扉が俺を迎えた。ゆっくりと軽い感触のその扉を開けたと同時に、俺は眩しさに目を細めた。