王立図書館蔵書
日記を書いていた手を止めて、ぼくははっと顔を上げた。浅葱が帰ってきたのだ。
「浅葱!」
ノートを投げ出して、慌てて浅葱のところへ駆け寄る。帰ってきた浅葱は苦しそうだった。浅葱が出かけてからずっと下のほうで大きな音が続いていて、今でも低くて大きな音をたてながら部屋が揺れている。きっと台風がきたんだ。外は晴れていたけれど、晴れても雨は降るんだから台風だって晴れていてもくるのだろう。
「浅葱、どうしたの!? けがしたの!?」
そんなの嘘だ。だって浅葱が台風で怪我なんてするはずがない。きっとぼくをびっくりさせるいたずらだ。
でも浅葱はいつまでたってもいたずらをやめてくれなかった。閉めたドアに寄りかかってずるずると床に座り込む。ドアには今まで見たこともない、嫌な赤い色の汚れができていた。これはなんだろう。
「たいしたことない。その証拠に、ちゃんと帰ってきただろう?」
苦しそうに、浅葱はそう口にした。いつも怒っているか難しい顔をしているのに、今日の浅葱はすごい苦しそうな顔だ。こんな顔は見たことがない。
浅葱が死んじゃう、ぼくは怖くなった。
「ねえ、浅葱。浅葱、死んじゃうの? ?ころされ?ちゃうの?」
「ああ・・・・・・言われてみればそうかもしれない。治癒魔法が効かないらしい」
浅葱がころされる。ぼくの心臓がどきどきとものすごい音をたてた。
いつか浅葱が浅葱の友達がユウシャに?ころされた?って言ったときは、その意味がよくわからなかった。でも、今初めてわかったような気がする。?ころされた?はぼくが思ってるよりずっと怖いものだったんだ!
どうにかしないと。そう思ったぼくはお城にいたときのことを思い出した。いつか風邪をひいたときに、お医者さんがぼくの風邪を治してくれたことを。
「浅葱、どいて! ドアを開けたいんだ」
浅葱はドアのところに座っていたから、まずどいてもらわないとお医者さんを呼びにいけない。
お医者さんはなんでも治せちゃうすごい人だから、きっと浅葱も治してくれる。浅葱はマオウだけど、怖くないから大丈夫だよね。困ったときはお互い様ってユウシャもいってたもの。
ここからでたら、今度は迷わずに外に出てみせるんだ。どんなに階段が多くたって、途中でねずみがおそってきたって、浅葱のためならきっとできる気がするから。だから、どうか神様お願いです。浅葱をころさないでください。
「・・・・・・・・・・・・そうだな、帰りたいか?」
「違うよ浅葱のばか!」
見当違いの浅葱の言葉に、ぼくはぶんぶん首を振る。ぼくの声はまるで泣いているみたいだった。
「お医者さんを呼んで、浅葱を治してもらうんだ。ぼくが浅葱を助けるんだ!」
「お前が、俺を?」
浅葱が少しだけ笑ったように見えた。苦しそうだけど、いつもの優しい顔で。
「お前はどうして俺の前に現れたりしたんだろうな。今更人間どもに復讐する気など微塵もなかったというのに。お前は・・・・・・どうして、俺の」
ごぽり、と嫌な音を立てて浅葱の口からたくさんの赤い液体があふれる。それは浅葱の胸から流れるものと同じで、灰色の石の床にゆっくりと染み込んだ。
「浅葱、浅葱っ、どこかいたいの?」
「・・・・・・うるさい、少し静かにしろ」
いつもと同じフキゲンな声でぼくを黙らせると、浅葱はぼくには聞き取れない不思議な言葉を唱えはじめた。何を言っているのかわからないけど、聞き慣れた声。聞き慣れた言葉。浅葱がまほうを使うときに唱える呪文だ。
そういえば、いつか浅葱は教えてくれた。ごはんを出そうとまほうを使ったら、なぜかぼくが出てきたのだと。ひょっとしたら、ぼくが今までお城でくらしていたのはみんな夢で、ぼくはあのときはじめて生まれたのかもしれない。浅葱と出会うために。浅葱といっしょにいるために。
「あ・・・・・・っ」
浅葱は呪文を唱え終わると同時に、しがみついていたぼくの体を突き飛ばした。石の床にしりもちをついたぼくの周りに見えない透明の膜が現れる。膜は透き通っていて、まるで大きなシャボン玉の中にいるみたいだった。
「浅葱、なにこれ? ねえ、出れないよ。あさ・・・・・・」
浅葱は苦しそうにたくさん咳をして、また口からたくさんの赤いどろどろした液体がこぼれおちた。
「そこにいろ。邪魔だから、出てくるな」
掠れて、よく聞き取れない浅葱の声。赤黒い染みで汚れてボロボロに破けたローブ。出かける前はいつもと同じ真っ黒のきれいなローブのはずだったのに。
「・・・・・・そういえば、勇者に引き渡すという手もあったんだな」
がむしゃらに手を伸ばそうとして、膜に指先が触れる。それはパチンと音を立ててぼくの指を傷つけた。いつかねずみにかまれたときと同じように指先に赤い液体がにじむ。
痛かった。これだけで、痛かった。ねずみにかまれたときよりも、ずっと痛い。じゃあもっといっぱい赤い液体の出ている浅葱はどれくらい痛いんだろう。
「ああ、それとも俺は、お前を手放したくなかったんだろうか・・・・・・」
「浅葱? 何を――」
そのとき突然大きな音がぼくの言葉を遮った。石の塊が浅葱の机の上に降ってきた音だ。ふしぎに思って上を見上げると、部屋の天井にひびが入って所々から太陽の光が差し込み青い空が覗いている。
いつの間にか部屋は崩れはじめていた。ひょっとしたら城自体が壊れてしまうのかもしれない。きっと外では今までで一番大きい台風が暴れているんだ。
やがてどんどん天井が降ってくる。でもそれなのに、ぼくの周りだけは膜が全部はじいてくれて小石ひとつ入ってくることはなかった。
「心配するな、その中にいれば安全だ。静かになって結界が消えたら、人を探して助けてもらえ」
「ねえ浅葱。何言ってるの? 浅葱?」
浅葱の言っていることがぼくには全然わからなかった。だって、それじゃあ浅葱とお別れするみたいじゃないか。
「前に言ったよね。ぼくはどこにもいかないよ! ずっと浅葱の傍にいるよ?」
「楓・・・・・・」
浅葱は苦しそうに手を動かし、ぼくのほうに弱々しく差しのべた。でも、その手はやっぱりぼくがどんなに手を伸ばしても届かないほど、ずっとずっと遠くにあった。
どれだけがんばって叩いても、ケッカイとかいうシャボン玉は消えてくれない。ぼくを浅葱のところにいかせてはくれない。手を伸ばすことすらも許してくれない。こんなのはいやだ。いやだよ浅葱。
「どこか遠くで・・・・・・誰も、俺たちを知らない場所で」
浅葱は笑っていた。それなのにどうして哀しい気持ちになったのか、ぼくにはわからない。
ただ、なぜだかぽろぽろと涙が零れてぼくのほっぺたを濡らした。
「静かに、お前と二人で暮らせたなら・・・・・・」
浅葱の目がまっすぐにぼくを見ていた。
ぼくは涙が止められなくて、笑いかえすことができなかった。
楽しかったかもな
雨のように天井から降り注ぐ石の音で、その声はかき消されてしまった。でも、ぼくには浅葱の口が、そういうかたちに動いた気がした。
「行こうよ。もっと遠くへ。ぼく、ずっとついていくよ!」