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ファッション

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「言い忘れてたけど、此処、御覧の通りとっくに潰れてるから。多分もう、十年以上前だと思うよ、営業してたの」
「片付けたり……取り壊したりは、なさらない……のですか」
「さあ、そのうち壊すんじゃない。知らない、手に入れたのは義父だし、あの人の考えてることはあたしには全然わからないから。買うだけ買って忘れてるのかもね。あと、お化けが出るって噂があるよ。自殺者が出たとか、殺人事件があったとか、まあ全部根も葉もない話だけど」
 階段を上り、二階の廊下の入り口でモリヤは男を振り向いた。
「何処でも好きな部屋を使えば」
「あなたは?」
「別の階を借り切ってるからお構いなく。……わかってると思うけど、電気も水道も使えないよ。しかもあたし、自分のぶんしか灯り持ってないんだけど」
「それは問題、ありません。大丈夫です……有り難う。それでは、遠慮なくお借り……します」
「ごゆっくり。あたしも自分の部屋へ行くから」
 男を暗闇に残して更に上の階へ上る途中、モリヤは不安に駆られて何度か振り向いた。男が追けてきている気配はなかった。殺されたって構いやしないという捨て鉢な気持ちでいるのに、些細な物音にもびくびくしてしまう自分が鬱陶しい。いつもの部屋にたどり着き、鍵の壊れたドアを、チェーンと南京錠で内側からしっかりとロックしてようやく、人心地がついた。
 サークル、コンパ、カフェテリアでのランチ、ゼミの友だち、恋人、旅行など、同年代の大学生たちが明るいキャンパスで送っている学生生活に馴染めないモリヤは、錆びついて開かない窓の向こうに広がる歓楽街に集う、ドロップアウトした夜の住人たちの輪にも入っていけない。モリヤの居場所は、このうち捨てられたラブホテルの一室にしかない。
 緞帳のような厚ぼったいカーテンの向こうに布張りのダブルベッドが据えられている。暗くて判りにくいが、カーテンもベッドの布もどぎつい深紅で、絨毯はショッキングピンクだ。壁紙は剥がれ落ち、コンクリートがむき出しになっている荒れた部屋の中で、真っ白いシーツがそこだけ整然とベッドにかけてあった。
 既に莓もクリームもぐじゃぐじゃに溶け、シュールなマーブル模様の固まりと化しているキャンドルをサイドテーブルに置き、モリヤはベッドに腰を下ろした。甘ったるい香りが漂う。
 無意識のうちに同じ位置に座っているのだろう、絨毯の一箇所に黒ずんだ染みが幾つもできている。疲れたな、と思いながらモリヤはボレロを脱ぎ、ナイフを手元に置いた。脚を大きく開き、幾重にも重なるガーゼの裾を腿の付け根まで捲り上げる。白い太腿に、縦横無尽に傷痕がつけられている。緻密な装飾が彫り込まれたナイフの柄を、モリヤはゆっくり握りしめた。


 女が去った後、彼はしばらくじっと耳を澄ませていた。……四階の、手前から四番目の部屋に入った。厳重に錠を下ろしている。精一杯虚勢を張っていたが、怯えていたのに違いない。……やけに、血のにおいのする女だった。真っ黒い髪が重たく目の上に被さり、血色がわるく、不健康に痩せて、美味そうには見えなかったが、妙に気に懸かるのは血のにおいのせいだろうか。
 手近なドアを開けてみた。部屋の中央に巨大なベッドが鎮座し、壁にスプレーで極彩色の落がきがあった。次の部屋には何やらスイッチの付いた円形のベッドがあった。どの部屋にも巨大なベッドがあり、何年も放置されていたらしく、荒れていた。結局、彼は最奥の一室を選んで落ち着いた。
 トランクから、ここへ来る前にまとめて失敬してきた血液バッグを取り出し、チューブの差込口に口をつけて人間が栄養ゼリーを吸うように吸った。あれは、いつのことだったろう、新宿駅の地下道を歩いていて、「あなたの血液を必要としている人がいます、ご協力をお願いします」という呼び込みに初めて出くわしたとき、彼は思わず微笑んだものだ。それは正しく私のことではないか。鮮度が落ちれば当然味は落ちるが、狩りをせずに糧が手にはいるなら、それに越したことはない。リスクはなるべくおかしたくない。以来、少々寝過ごした目覚めのあとには必ず同じ場所へ行き、あの献血ルームが変わらずあることを確認することにしている。
 眠っていたのはひと月くらいだったようだ。あの地下のねぐらはもう使えないだろう。当面は此処に間借りするとして、新しい住まいを見つけなければならない。またインターネット・カフェにでも潜り込んで、色々調べてみなければ。
 空になった血液バッグを握りつぶし、彼は額を支えるように手で目を覆った。また、目覚めてしまった。この眠りが永遠であるようにと眠りに就くたび願うのに、黄昏とともに規則正しく目が覚める。身を隠し、誰にも頼れず、右も左もわからない世界を歩く術を探し、秘かに歩き回る。ニュースのチェックも欠かさず、自分を取り巻く全てに神経を尖らせておく。そんなことを、いつまで続ければいいのだろう。
 それでもあるじ主と共にあった間はまだよかった。主が……ルカが傍らにいない今、神に見放され安らかな眠りから追放されていることは、終わりのない責め苦でしかない。
 彼は頭を振って、主の面影を振り払おうとした。かわりに、主によく似た子どもの姿が脳裡を過ぎった。あの女はあの子を妹だと言った。試着室から消えたことも知っていた。あれは軽い悪戯だった。店員が、「お客様がその服をお召しになったら、本物のヴァンパイアに見えますよ」などと言うので、可笑しくなってしまったのだ。が、悪ふざけが過ぎたかも知れない。
 あの女、喪服のように黒い服を着た、血のにおいの陰気な女に近付けば、あの子にも近付けるだろう。名前を聞き忘れたことを、彼は少し悔やんだ。


 微睡みから覚め、モリヤは放り投げてあった携帯電話を手探りして時間を確かめた。始発は動いている時刻だ。怠い体を起こして立ち上がり、散乱しているナイフやミネラルウォーターのペットボトルや燃え尽きたキャンドルの絵皿をドクターズ・バッグに突っ込んで、部屋を出た。太腿が鈍く痛む。
 非常用の外階段を下りて、ほとんど自動操縦されている状態で新宿駅に向かった。都営十二号線の改札を抜けて地下深くのホームへ延々下るエスカレーターで、見知らぬ男を建物に入れたまま、エントランスを外から戸締まりしてきたことを思い出した。モリヤは思わず天を仰いで舌打ちした。面倒なことになった、と思ったが、戻って男を叩き出す気力もない。エスカレーターの手すりにぐったりと凭れ、モリヤは溜息を吐いた。
 今日は金曜日なので、病院に行かなければならない。そのことを考えただけで、モリヤのまわりだけ重力が倍加するような気がする。気が滅入る。
作品名:ファッション 作家名:柳川麻衣