ファッション
絶交してしまった方が精神衛生によいとは重々わかっているのだが、モリヤはそれも出来ずにいた。美針とはゴスロリ・サークル「ノスフェラン」の定例のお茶会で知り合った。美針は「ノスフェラン」の幹部的な立場にいるので、お茶会に出席する限り顔を合わせることは避けられない。ゴシック・ロリータファッションを愛好する人々がとっておきの一枚で目一杯めかしこみ、お茶会と称して集まり、和気藹々交流を深めることをモリヤは内心馬鹿にしていたが、そのくせ誘われるとつい出掛けてしまうのだった。
それに美針は顔を合わせると不思議なくらいモリヤに懐いてきた。真夏でも長袖かロングのグローブで腕にうっすら残る痕跡を隠しているモリヤのことなど、本音では良く思っている筈がないが、お茶会では何故かモリヤに気を遣ってくれ、特別扱いもしてくれた。そんなふうに接して来られると、モリヤも面と向かって邪険には出来ないのだった。
思考は好き勝手に巡り、黒いものは煮詰まる一方だった。モリヤはベッドから体を引き剥がして立ち上がった。ガーゼ素材のレイアードワンピースに着替え、大きく開いた肩と背中を隠すためコットンニットのボレロを羽織る。持ち重りのする銀色のナイフをアナスイのドクターズ・バッグに忍ばせ、細心の注意を払って静かに階段を下りた。
上りの終電車は空いていたが、目的地の新宿は深夜零時を回っても人の気配が絶えない。東口に出て新宿通りを一本入ると、途端に繁華街らしい猥雑な闇が深くなる。その中を、モリヤは足早に歩いた。
新宿区役所の重々しい建物の前を通り、区役所通りを歌舞伎町の奥へと進む。横目でゴールデン街の入り口を見る。人ひとりがやっと通れる細い路地の両側いっぱいに、小さな店がぎっしりとひしめいているのだ。いつか、知人とゴールデン街に繰り出して常連さんと意気投合したと、美針が自慢げにオンライン日記に書いていた。中上健次も江戸川乱歩も寺山修司も読んだことがないくせに、と今思い出してもいまいましい。けれどあの路地に入っていって、民家のそれと変わらないドアを叩く勇気は、モリヤにはなかった。きっと狭いカウンターで、隣の人と腕がぶつかり合うような距離に座って、見知らぬ客やマスターとも会話しなければならない空間に違いない。そんな密なコミュニケーションをとれる訳がない。ついでにモリヤは体質的にアルコールを受け付けない。
アダルトグッズのショップ、ガールズバー、ホストクラブなどのけばけばしい看板がひしめくコマ劇場付近のギラギラした空気と比べると、その先のラブホテルが建ち並ぶ一帯は嘘のように静かで、住宅街のようでさえある。洋風の瀟洒な外観だったり、南国リゾート風だったり、余計な装飾をなくしてスタイリッシュにしていたりと、それぞれに趣向を凝らしているホテル群に紛れて一軒、あきらかに時代遅れな寂れた建物がひっそり建っていた。どこともつかないヨーロッパの古城を安っぽく下品に模したその建物の前でモリヤは足を止め、衝立のようにめぐらせた壁の内側に回ろうとして、立ち竦んだ。
通りからは目隠しされている入り口の前に先客らしき人影がある。黒い服を纏った長身が闇のなかに溶けている、夜の影のような男だ。皮膚と長い髪だけが白い。先日、未遠とアリスアウアアの前で遭遇した男だとモリヤは直感した。暗くて顔がはっきり識別できないが、流石にサングラスはかけておらず、切れ長の瞳がやけに紅く燃えていた。どこのメーカーのカラーコンタクトだろう、こんなに綺麗に色が出るなんて、とモリヤは場違いなことを考えた。
回れ右して引き返すか、男の存在を無視して中に入るか逡巡しているモリヤに、男は低い声で話しかけてきた。
「あなたは、此処のオーナー……ですか」
夜更けの新宿で不審な男と関わり合いになるのは御免だが、仕方がない。モリヤは声のトーンを落とし、なるべく冷たく聞こえるようにぶっきらぼうに言った。
「こんなところに何の用」
「宿を……探しているんです。此処には泊まれないのかと、思って……」
男が指差した看板はところどころ電飾が落ちていたが、かつては「HOTEL」というネオンが点っていたことは辛うじて見て取れた。不機嫌の固まりのようなモリヤの顔に、微笑が浮かんだ。口の端が歪み、瞳には小馬鹿にしたような光が浮かぶ。嘲笑のような微笑。彼女はこのようにしか笑えなかった。
「確かにね。ホテルだけど、ラブホテルだよ」
「ああ」
「ひとりで来たって意味がないんじゃない」
「あなたもひとりで来た、しかも……こんな夜更けに。……随分、勇気がおありですね」
男の話しかたには不自然な間と奇妙な抑揚があった。外国人なのかも知れないとモリヤは思った。
「あたしの事なんかどうだっていいでしょう。死んだって構わないと思っているから何も怖くないだけ。それに、あたしは此処の持ち主みたいなものだから」
「……やっぱり、オーナー……ですね」
男が微笑んだ。柔らかく、感じのいい微笑だった。
「よかった。お会いできて」
「……ねえ、何の用? あんた、あたしの妹をじろじろ見てアリスアウアアの前にいた人でしょう。あのあと、試着室から消えたって聞いたけど? 何者なの? まさか幽霊?」
ドクターズ・バッグを引き寄せ、手を突っ込んでナイフの冷たい感触を確かめながら、モリヤは刺々しく詰問した。男はモリヤの警戒心など全く意に介さず、笑みを浮かべている。
「さあ……どう思います」
「自分で言っておいて申し訳ないけど、あたし霊感はない方なの。お化けを信じてるほど純粋でもないし」
「ええ、霊体では……ありません」
不意に男がモリヤの左手首を掴んだ。体を引く間もなかった。生ぬるい春の夜に、男の手は氷の冷たさだった。その冷たさにモリヤは震えた。
「ねえ、……中に……入れてください」
折れそうに細い手首を離さないまま、男はモリヤの瞳を覗き込んで、囁いた。低く、掠れた声が何故かひどく甘く耳を打って、モリヤの耳朶にかっと血が昇った。鮮やかな、血のような真紅の瞳に間近で見つめられているうちに、モリヤは男に抗う気力を失った。
「……離して。今、鍵を開けるから……」
男はモリヤを解放した。モリヤは二、三歩よろめき、絶対者に命令されているような心もちで、財布から鍵を取り出した。鍵を南京錠に差し込んで回す、それだけのことが上手く出来ず、錠を解くのに時間がかかった。力をこめて曇り硝子のドアを押すと、耳障りな音を立てて軋った。
ふらふらと一歩入りかけてモリヤは思い出したように蹲り、ドクターズ・バッグを探ってジッポーとキャンドルを取りだした。莓のケーキを象ったキャンドルは、二十一歳の誕生日に美針がくれた。美針はアロマキャンドルに凝っているらしく、モリヤにも何かとくれるのだが、モリヤの方ではこんな時にしか使い道がない。まるい小さな絵皿に置いて火を点けると、莓が溶けて流れ出す。
「……入って」
男を招き入れ、モリヤはドアを閉めて内側からしっかり施錠した。真っ暗な中、フロントがあったと思しきカウンターや、触れたら崩れ落ちそうに朽ち果てた観葉植物の鉢、部屋を選ぶための写真パネルなどが、モリヤの掲げるキャンドルの弱く不安定な明かりに気まぐれに現れる。