そらのまんなか
そこには大量の書類が用意されていた。冊子だけで校則規定の教本が一冊、操縦のマニュアルが二冊、学科が三冊。そしてIDの交付とその使用目的や方法。各施設の利用方法や校内地図、等々。
簡単な説明と共に事務的な処理を手短に済ませ、ブラッドはヨウの前にものを次々と積み上げた。一つの山にまとめれば、椅子に座っているヨウの頭を軽く越すだろう。それを与えられた部屋まで誰が運ぶのかを考え、彼は内心うんざりした。
「最初の一週間はオリエンテーションだと思え」
「何をするんだ?」
椅子の背にもたれ、ポケットに手をいれた状態で話を聞いていたヨウが口を挟む。その姿勢にブラッドは眉を寄せ、苦虫をかみつぶしたような渋い顔をした。眉間に皺が出来る。その年齢と容姿にはとても似つかわしくない表情だった。
「共通語が分からないのか?」
「アイキャンフォローユー」
腰に片手を当てると、少年はため息をついた。表情がわずかに崩れ、年齢相応の幼さが覗く。
「ここで残りたいなら最低限はわきまえろ。俺の監督責任になる」
黙って、ヨウはブラッドを見返した。数秒睨み合う。黒と青が空中で交錯し、そしてお互いに探り合った。ふっと、その緊張がほぐれる。
「最初の半月は学科がメインだ。一週間は仕組みとマニュアル。二週間目にシミュレーション。三週目からが実地になる」
先ほどのやり取りがなかったかのように、ブラッドは話を進めた。余韻が、その表情と声の低さにだけ残っている。
「基礎データを見た。体力と筋力が著しくないな」
机の上のフォルダの中から一枚の紙を出して、ヨウに向けて机に載せた。指で、印字されている数値を指す。二列に並んだ数字の中でいくつか赤い文字があった。
「赤がビロウ・アベレージだ。横の黒字が校内同年齢、同体型の平均値」
ヨウが紙を一瞥した。言われたとおり、総合的な基礎体力値と筋力は大幅に平均よりも低い。その代わり、瞬発力、動体視力、柔軟性などは平均を軽く超えていた。自分で把握している通りの結果が出ている。
ヨウの様子を見ながら、ブラッドは厳かに告げた。
「この数値を二週間以内に平均まで上げろ」
ヨウの眉が跳ね上がった。無言の抗議を無視して、ブラッドは続ける。
「ただし、超えろとは言わない。到底無理だからな。最低、誤差の範囲内まで上げてもらう」
「その最低ラインは?」
「八十五パーセント。無理な数値じゃない」
考え込むようなヨウの様子に笑んですら見せて、ブラッドは言いつのった。
「今のお前の体力と筋力ははっきり言って俺以下だ。悔しかったらトレーニング・ルームに通うんだな」
Ⅱ
政府によって作られた、連合国立航空機操縦士養成学校と整備士養成学校。旧フランス政府により先導され整えられたそのシステムは、すぐに各地に分校を持つ大所帯になった。
核戦争の廃止のため、当時の先進国各国政府は元々の自分の国やエリアに厳重な監視網を作っていた。監視までをコンピュータにまかせ、その監視を人間がするという、人件費のかからない二重のシステムである。最新型の航空機や偵察用の電子機器ではそのデジタルの監視網にひっかかる。人工衛星は、それぞれ他の国の打ち上げた人工衛星を牽制しているだけで手一杯。そこで、表向きは旅客機や空軍への人材派遣が目的とされ、当時の懐古ブームも手伝って、二十世紀頃使われていたアナログな航空機を元とした機体が採用された。主に燃料や燃費の面で、その他にも細々な改良を加えただけで、大幅な変化はない。
そもそもが、セスナ機のように早く飛ぶ必要があるわけではなかった。ただ、監視網に引っかからなければいい。最低限の飛ぶシステムと古くからある無線。自爆装置の設置がいらないように、滅多な装置や情報は乗せない。
過去はよかった、過去へ戻ろう、と、懐古主義的な理論でもって他の国や世論を納得させ、政府は旧式の航空機の製造と、そのための人材作りにのりだしたのだ。
学校は航空機操縦士を生産する一方で、優秀な生徒をそのまま雇うことで手元に温存し、政府からの仕事をそれぞれ請け負う。システムを完全に利用していた。
操縦士養成学校――通称エコール・アルファ――は当時旧フランス自治省の役人だったヴィクトール・ブリューノにより設立され、彼が初代校長に就任した。旧フランス本校ではブリューノ家が代々校長になる暗黙のしきたりが、もう200年ほど続いている。
要=在原が母校である旧日本分校から異例の放校処分を受けたのは、この移動よりも三ヶ月ほど前のことだった。
それは十二月の終わりのことで、彼はその時旧日本分校の主席卒業が確定し、そのまま推薦就職が決まる寸前だった。
成績自体はずば抜けてよかったが、元々、要は大人しく命令を聞くタイプでない。口調や態度、服装など、いちいち言われるほどではないにせよ、様々な面で教官達に目をつけられていた。そこへ、事件が起こった。
生徒から社員への引き抜きの選考期間中、インターンとしての仕事中に仲間の一人がトラブルを起こし、それを助けようとした要の行為が校則に抵触したのだ。
それまでも何度か服務規程違反をしたことはあったし、同じように校則違反をして教官から怒られたこと、怒鳴られたことはなんどもあったが、今回は勝手が違った。
呼び出しはすぐではなく、数日後だった。応じると、渋い顔をした校長、副長、そして担当だった教官が勢揃いして、彼を待ちかまえていた。
「実はまずいことになった」
と校長が切り出すまでに長い沈黙があり、要は二回あくびをかみ殺し、部屋に入って一分ほどは保っていた直立不動の姿勢をとうに崩していた。しかしこの態度から、彼をよく知るものであればそれなりに校長を評価していたことは分かる。
その間、がっしりした体格のいかにも、というタイプの教官は何か言いたげに要を見ており、頭の薄く小太りで気の弱そうな副校長は、額のかいてもいない汗を拭い続けていた。
校長は、中央の重厚なデスクに座っていた。ロマンスグレィのハンサムで、年齢に似合わぬスリムな体型であることも手伝い、密かに女生徒に人気がある。過去の華々しい武勇伝からは想像出来ないほど温厚な性格でも知られていた。
しかし、彼が就任してからの二十年弱、ここまで彼を困らせたものはいなかった。旧日本分校において、ある意味歴史的な記録を打ち立てたのが、要だったと言える。
「今回の校則第三章六項と第五章十七項に対する違反だが、本校へ報告がいっていて見逃せなくなった」
重々しい口調で告げる。要は、特に表情を変えなかった。その態度に教官が進み出ようとするが、校長の手によって押しとどめられる。それを見て、また校長に視線を戻すと、ひどく冷静な口調で要が言った。
「退学ですか」
「もう君は卒業資格を得ている。本校の上への推薦も本決まりだった。本来なら、この程度の違反は厳重注意だけで済む所だ。もう、何度も経験があるだろう?」
口角をわずかにあげて、要は答える。訓練中にも演習中にも同じような違反を何度もして、注意を受けたことがあった。そのたび校長は特に怒りも怒鳴りもせず、むしろ可笑しそうに、穏やかに笑っていた。