朝焼けドロップ
「聞いてみてもいいと思うよ。でも、それを聞けば君の中の君は死んじゃうと思う。そうしたら君は空っぽになる。それを幸と不幸と取るかは君次第だけど」
「……誰だ、お前」
この静かな空間の中ではどこか神々しさまで覚えてしまう、異様な雰囲気を持ったこのガキに、なんとなく恐れを抱いた。心を読まれた――そんなもんじゃない。こいつはもう、俺がこれからどう生きて行くかも知っている……そんな気がした。
「『自分の事なんて自分が一番わかってる』なら、僕の事だってわかるはずだ」
無表情を崩す様子はない。感情の起伏がなければ、そもそも表情なんてあるはずがない。誰にしろ、作り物の表情というものは存在するはずだが、このガキにはそれすらもないと、なぜか確信できた。
「じゃあね、お兄さん。どうか、幸せでありますように」
黒ぶち眼鏡のレンズから透き通る、どこまでも黒い瞳で俺を見つめた後、ガキは子どもらしく狭い歩幅で歩きながら電車を後にした。
電車が一度停車していた事に気付いたのは、再び電車が動き始めてからだった。誰もいなくなったはずの車両には枯れた土に草が芽吹くように、ぽつぽつと人が見られた。
地元の駅に降りた頃には十時を回っていた。雲は太陽の光を妨げる事が仕事なのか、相変わらずの曇り空を保っている。ひんやりとした空気を一度大きく吸い込むと、なんとなく都会とは匂いが違うように感じた。郷愁にふける気はないが、少なくともあの雑多な街よりかは澄んだ空気が吸えていると思う。
「ギンジ」
改札を抜けると目前には古びた写真機があり、左にはコンビニがある。近くにある店と言ったらこのコンビニぐらいで、スーパーの代わりに利用する主婦すらいる。
「ギンジってば」
それ以外は特に何もない。人もまばらだし、車の通りも少ない。開発を放棄された町、錆びれた町、何もない町――どれも正しい表現だ。
「シカトしないでよ、ちょっと」
「……誰だよ、アンタ」
「あなたの姉の菜緒よ。顔も覚えてないわけ?」
そりゃ、俺の知ってる姉との共通点がほとんど見当たらないからな。金髪じゃなかったし、ピアスなんてつけてなかったはずだ。だからと言って何の感想もない。
「お父さんの車借りたから、さっさと行くよ」
連れられるがままに、道路脇に止められた小さな車に乗り込む。運転は姉がしてくれるらしい。
「で、親父はどういう状況?」
「今日か明日ぐらいには息を引き取るみたいよ。呼吸器とか点滴つけて、かろうじて命を保ってる状態だって」
助手席に座った俺はどうでもいい事を聞き、どうでもいい返事をもらいながら、積まれたCDを漁る。てきとうに取り出したCDは親父の好きな九十年代ロックを代表するバンドのアルバム。ガキの頃に親父がいつも車でしつこく聴いていたのを思い出す。
「ちょっと。そんなの流さないでよ? 別段嫌いってわけじゃないけど、聴き飽きた」
――あぁ、やっぱりこの人もそう思ってたのか。一応、小さい頃は家族で出掛けたりもした仲だ。後部座席にいたその姉が今や運転席にいるというのも、何だか不思議な気分だ。
親父はよくこのCDを流しては楽しそうに口ずさんでいたっけな。それだけが唯一思い出せる、親父の表情だ。
音楽を流す事も、会話もする事もなく、二十分が経過し、視界には白く大きな病院が広がった。わりと大きめの病院で、地元の人間は大半ここを利用する。見慣れた病院に入り、廊下を抜けて行く。少し前を進む姉はエレベーターを待っている時に、こんな事を口にした。
「なんになるんだろうね、私たちが行ったところで」
それが扉の呪文だったかのように、エレベーターのドアが開いた。五階のボタンを押し、揺れるエレベーターの中で、俺は茫然と姉を見つめていた。
「なによ?」
「いや、別に」
どこまでも滑稽だな、と思った。姉だけではない。俺も含めた家族そのものが、だ。わかってはいたが、姉も親父も家族という名前の他人だ。友人でもなく、知り合いレベルにも達していない関係。行動を共にする事もなく、声を聞く事もない。
何年ぶりになるかもわからない。久しぶりの姉との会話。だからと言って何かが変わるわけでもない。家族を演じる真似すらしなかった俺たちは、もはや他人以下の存在でしかない。
そんな事を考えていながら歩いていたら、すでにもう一人の他人以下の存在を見下ろしていた。ごちゃごちゃした機械から伸びるチューブを身体中に挿入され、酸素マスクはテープで固定されている。痩躯な身体に似つかわしくない伸びた髭、もはや血の気がゼロに等しい青白い肌が生活の荒廃を物語っているようだ。
何の病かは結局聞いていないが、ただ今日明日に死ぬのは確かならしい。
姉は近くの椅子に座ると、親父の顔を無表情で見つめる。テーブルの上に見舞の品など一つもなく、様子を見に来たのは俺たちだけのようだ。
「――お父さん」
病室に小さく響く高い声。
「……ねぇギンジ。何て言えばいいと思う?」
――そこでなぜ弟に振って来るんだ。
「どうせ聞こえないんだ。貯まった文句でもぶちまけてみたらどうだ?」
「……貯まる文句もないのよ。かといって、恩も何も感じてない」
そりゃそうだろう。話す事も、存在の認識すらなかった人間に対して文句なんて言いようがない。人生を落第したような親父に『生活費を稼いでくれてありがとう』なんて感情、一片たりとも感じていない。
だって、俺を生んだのは母さんとこの親父だ。それは二人が勝手にやった事であって、俺自身は生まれたい、なんて思っていなかったのかもしれない。存在しないものを作り出す、それが子供を作るという事だ。存在しないものに感情なんてない。作られてからじゃないと、自分の存在すら確認できない。
それは幸せな事なのだろうか? 存在しないものに意識があるとするなら、そいつは存在したいと願っているのだろうか? 途方もない考えを巡らせながら、結局は存在している自分に問いかける。
「…………あっ」
電車の中で会った黒ぶち眼鏡のガキの事を思い出した。
――そうか。今、問いかけた自身が『自分の中の自分』に値するんだろうか。そして今『自分の中の自分』は、答えを探している。
「――願ってない、な。たぶん」
しばらく茫然と親父を見下ろしていると、姉が席を立った。
「私、午後から仕事あるから」
急ぐ様子もなく、何事もなかったかのように姉は部屋を出て行く。
「さよなら」
最後に、家族にそう言い残した。
「あぁ、さよなら」
という俺の返事が姉に届いたのかは、もうわからない。
特に何もなく、時間だけが過ぎ去って行った。俺は姉と違って仕事があるわけでもないし、バイトも今日はない。他にやる事もない。だから、座りながら黙々と親父を見つめていた。
閑散とした部屋に響くのは機械音だけだ。窓から太陽の光が差し込む事もなく、いくら時間が流れても部屋は薄暗いままだった。途中、医者が何度か様子を見に来たが、表情は芳しくなく、俺に掛ける言葉を探そうとしている様子を見せたかと思えば、颯爽と部屋を立ち去って行く。ただ、それの繰り返し。