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朝焼けドロップ

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 これほど時間の流れを早いと感じた事もない。気がつけば薄暗い部屋は真っ暗になり、緑色に光る機械のライトだけがこの空間に色を作っていた。
 …………いつまでこうしていただろうか。もう日は跨いでいるだろう。段々と脈がなくなっていくのは機械を見ていればわかる。もうそろそろだ。親父はこのまま寝たように息を引き取るのだろう。
「聞きたい事、聞かないの?」
 戸が開く音がした。背を向けているというのに、差し込む廊下の明かりが眩しい。俺は後を振り向く事もせず、その子どもの声に受け答える。
「なんでここがわかったんだよ?」
「まだそんな事を言うんだね」
 おそらく、あのガキは薄笑いすら浮かべていないのだろう。無表情というより、表情を作ることすら知らない……たぶん、あいつはそういった存在だ。
「ねえ、何か言いたいんでしょ?」
「別にねぇよ」
「嘘だ、それは」
「なんでそう思うんだよ」
「お兄さんを知っているから」
「俺の何を? 流されて生きて来て、生きがいもなくて、誰が見てもクズ同然の人間の何を知ってるんだよ?」
 ――俺だって、何でこうしてここにいるのかわからないってのに。
「ほら、それを言えばいいんだよ」
「…………死に行く他人に言う事じゃない」
「言わない事にはそれが事実なのかもわからないよ」
 互いに顔の見えない会話は淡々と進んだ。このガキはなぜ俺につきまとうのか、こいつは誰なのか――なんとなくわかりかけたが、そんな事はどうでもよくなっていた。
「僕の中のお兄さんは寂しがり屋な人だね。あらゆるものに魅力を感じなくなって、道行く人は敵だって認識してる。そうやって、いろんなものを拒否し続けている」
 このガキの言う事は恐ろしいほど胸に木霊していた。世の全てを知り尽くした仙人に教を唱えられているような気分だ。それに対しても俺自身の感情の起伏はないが、荷が重くなっていくように感じるのは、このガキの言う事が自分の醜い部分を曝け出していくからだろう。
「それに慣れちゃったから、人の温もりが伝わる事もない。つぼみなんて閉じたままでいい、それが今のお兄さんの矜持なのかな」
 言い返す事ができない。いや、もはや言い返す気もない。
「言って後悔するか、言わずに後悔するか。選択できるのはお兄さんだけだよ」
 光がなくなる。俺はガキの方を振り向いてみたが、すでに戸は閉まっていた。





 どうだっていいじゃないか、もう。この家族は血の繋がりがあるだけで家族ではなかった。だから、この他人が死んだとしても何も感じないし、何も変わらない。これからも俺たちが進む時間は交わる事はないんだ。こんな冷たい関係はさっさと断ち切るべきなんだ。心からそう思っているはずだ。
 ――なのに、いつものアルバムの曲を笑いながら口ずさむ映像が離れない。
「……なぁ」
 親父だってようやく苦しみから解放されようとしているんだ。その苦しみを煽るような事を言ってどうする
 ――あぁ、苦しかったんだろ? 親父。
「なんで」
 どうせ言ったって聞こえやしない。気を失っている最中、周りの声は聞こえていた、なんて事もあるらしいが、死ぬ直前の人間にそんな事はできない。
 ――俺も苦しかったんだ。
「……なんで、生きようとしたんだよ」
 何を生きがいにして、何を求めて、幸せなんてなかったのに、親父はなんで生きる事ができたんだ、と続けた。ようやく掛けた言葉がこれだ。
 放った馬鹿な発言――その重圧に潰されそうになった。確かに何もない家族だった。でも、俺の記憶には確かに親父が幸せそうに笑っていた記憶があるんだよ。俺の中の親父はそういう存在なんだよ。
 ……もっと気の利いた言葉を掛ける事ができたはずなのに。一緒に家に住んでいた時も『おかえり』の一言ぐらい掛ける事ができたはずなのに。最後の最後、ようやく自分が苦しんでいた事に、自分が寂しかった事に気付いたのに――――おい、死ぬなよ馬鹿親父。

「俺の幸せは近くにあったさ」
 
 籠った声が、小さく空気に乗せられてきた。

「一番幸せだった瞬間は、間違いなくお前達が生まれた時だった」
 
 親父は目を閉じたままだ。暗くて口が動いているかもよくわからない。

「その時に誓った。俺の幸せが形になったお前達を、幸福にしてやりたいって」
 
 聴覚を集中させなければ聞こえないほど小さな声だったが、途切れてはいない。太い声は掠れているが、決して途切れてはいない。

「でも、そんな力は俺にはなかったみたいだ」
 
 ――もう十分だ。

「悪かったなぁ……父親になることはできなかった」
「それで十分だよ、親父」
 返事をした。聞こえているかなんてわからない。今、本当に親父が喋っているのかも定かではない。でも、返事をした。
「親父が、俺を生まれてた事を幸福だって……そう思ってくれてただけで十分だよ」
 ようやく親父に触れた。俺の手より細くなってしまった親父の手は、こんなにも細いのに温かかった。

「ギンジ」

 暗闇の中の親父を見つめる。さっきまでわからなかった表情が、今ははっきりと見える。

「いい男になったなぁ、お前」

 親父が笑ったのと、機械が高い音を上げたのは同時だった。





 大きなドアを開けると、冷たい風が身体を貫くように押し寄せてきた。その風を泰然と受け止め、鉄格子越しに外を見下ろすガキに視線を落とした。
「……おい、ガキ」
 屋上まで全力で走ってきた反動がやって来た。肺が酸素を求め、上手く声が出せない。冷たい酸素はまるで水のようで、吸い込むたびに喉が潤う気がした。
「どうしたの? お兄さん」
 なんとなく、このガキは屋上にいるんだと思った。俺もここに来たいと思ったから。
「……お前の言う通り、何も残らなかったよ。空っぽになっちまった」
「そう」
「それを俺は、幸せだと思えた」
 親父にあの質問をして、俺の中の俺は死んだ。親父なんて、家族なんてどうでもいいと思っていた俺は死んだ。
「俺に一からのスタートなんて、もうできやしない。だけど」
「途中からのスタートが、一からのスタートに劣るわけじゃない」
「結局、二つは変わらない。自分の過ごした時間に、確かに自分が居る」
「事実はそれだけ。たとえ劇的に今が変わらなくても、なんとなく過ごした日を少しでも『楽しかった』って思えたなら」
「それだけで生きていられる。生きる意味がある」
 じきに夜明けだ。曇り空は昨日と変わらず。でも、この屋上からは地平線の彼方まで見えるような気がして
「――うん、ありがとう。お兄さん」
 空の奥、そのもっと奥からは、雲を貫いた一筋の光が差し込んでいた。黒ぶち眼鏡のガキは変わらず無表情を保ち、でも満足したような顔を見せ、その光へ還るように、ぼんやりと消えていった。
「……おい、ガキ!」
 育った町の空気を大きく吸い込み、一気に吐き出す。
「笑える日、絶対来るからな! お前も生きろ!」
 木霊する自分の声を最後まで聞いて、ようやく遠くの光に別れを告げる事ができた。コンタクトレンズ越しの光は、瞼の裏にしっかりと、真実として焼き付いた。





 今が幸せかと聞かれたら、俺はたぶんイエスと答えるんだろう。







作品名:朝焼けドロップ 作家名:みなみもと